2話 唯
陽菜は息を切らしていた。
本屋から逃げるように離れ、川沿いの道を走っていた。
気がつけば、例の単行本の入った袋を強く握り締めていた。
次第に足を止め、くしゃくしゃになった紙袋の中の本を見つめる。
そこには、武者小実篤の『友情』が入ってあった。
正直、興味はない。
ぱらぱらとめくってみても、なんだか難しそうな本で、古臭い匂いがした。
本をパタンと閉じたと同時に、陽菜の肩を誰かが叩いた。
あまりに驚いて、体が飛び跳ねる。
「なぁに。そんなにビックリしちゃって」
陽菜の後ろに立っていたのは、親友の唯だった。
部活帰りなのか、肩には大きなスポーツバックがかけられている。
唯が頭を動かすたびに動く長いポニーテールの髪。
おでこもすっきりと出ているから、熱い夏場には涼しげに見えた。
「何? その本」
唯は陽菜の手から、『友情』を奪い取った。
陽菜は慌てて、取り返そうとする。
「『友情』? 私、作者の名前も知らない。陽菜ってこういう趣味あったわけ?」
唯はその単行本をまじまじと見た。
ぱらぱらめくったが、特に興味は沸かなかった。
そして、そのまま陽菜に返す。
「べ、別に、なんとなくだよ。夏休みだし、店員さんに勧められた本を買っただけ」
陽菜は慌てて、自分の手提げ鞄の中にその単行本を突っ込んだ。
唯はふぅんと言いながら、陽菜の前を歩いた。
「そっか、宿題で読書感想文出てたよね。陽菜は相変わらず真面目だね。読書感想文なんて、きっと私ぎりぎりに書くよ。あれならさ、ネットに書いてあるあらすじや他人の感想文見て、書いちゃえばいいんだし」
「そ、そんなのばれちゃうよ」
「大丈夫。江口でしょ?気づいたって、めんどくさがって説教もしてこないよ」
江口とは、陽菜たちの国語の教師だ。
熱血教師とは真逆で、物静かで何に興味があるのかも良くわからない教師だった。
それなので、生徒達にはどこかなめられていて、江口の授業中の半分は居眠りしている生徒が殆どだ。
二人は少しの間、黙って歩いた。
陽菜も唯に何を話していいかわからなかったからだ。
しかも、今の今まで唯と室井のことを占ってもらったばかりだというのに。
「それよりさぁ」
急に唯が振り向いて、陽菜に話しかけて来た。
「今日も室井先輩かっこよかったんだよ。試合も近いから、気合入ってたし。室井先輩が投げる姿ってほんっとかっこいいよねぇ。でもさ、最近、グランドに野球部の練習を見に来る子が増えたんだよぉ。私の室井先輩なのに、辞めてほしい!」
陽菜は少しだけ苛立ちを感じた。
室井は唯の恋人ではない。
別に他の女の子が憧れてもいいはずだ。
「あれ、殆ど夏期講習終わって、暇してる女子ばっかでしょ? 部活もしてないならとっとと帰れっての。しかも下級生まで増えてるし。一年で室井先輩に目をつけるなんて生意気だよ。私もさ、バレー部なんか辞めて、陸上部にすればよかった。そしたら、部活しながらも先輩のこと見ていられるし」
「でも、唯、走ってばかりの陸上部になんて興味ないって言ってたじゃない」
「室井先輩がいるなら別だよ。走りながらなら野球部のこと見られるけどさ、トスしながら野球部の練習見れないでしょ」
陽菜は言い返す言葉が見つからなかった。
陽菜が室井に興味を持つまで、唯のこういった自分勝手な言葉も気にならなかったが、同じように室井に恋焦がれるようになってから、唯の言葉がだんだん腹立たしくなっていたのだ。
唯はいつも室井を独り占めしたがる。
それは、陽菜も気持ちはわかるが、唯が室井を好きになる前に、他のたくさんの女子生徒が彼に憧れていたはずだ。
それにも関わらず、まるで自分が一番初めに好きになったかのように、他の女子生徒を邪険に言うのだ。
唯の事は、親友だと思ってきた。
室井のことがある間までは、唯のことを腹立たしいなんて思うことはなかったはずだ。
だが、今の唯の姿を好きになれなかった。
唯が変ったのではない。
むしろ、陽菜の感情が変化したのだ。
唯はクラスメイトからもあまり好かれていない。
自分勝手な発言が嫌がられる。
気も強く、思ったことをはっきりと発言するので、皆居心地が悪いのだ。
陽菜はいつも唯のそばにいるからわかっていた。
唯は自分勝手で我儘だが、根はとてもいい子だ。
純粋で明るくて、大人しい陽菜からすれば、その自分の意見をはっきり言える唯が羨ましくもあった。
けれど、恋は人を変える。
さらに唯を身勝手にしてしまう気がした。
それは陽菜も同じかもしれない。
今まではそんな発言も聞き流すことが出来たのに、最近では聞き流すことが出来なくなっていた。
唯が室井を自分のものだと言う度に、陽菜の心の中にどろっとした何かが溢れてくるように感じていた。
「ねぇ、陽菜。この後、暇?」
唯が陽菜の顔を覗いて話しかけてきた。
陽菜はじっと唯の顔を見た。
「今から服を買いに行きたいんだぁ。ついてきてくれない?」
「服? イオンモールに行くの?」
「イオンモール? そんなダサイところ行かないよ。原宿だよ、原宿」
陽菜は驚き、自分の腕時計を見た。
時刻はすでに三時を過ぎていた。
「原宿? ここから電車で一時間以上はするよ。今から買い物なんかしたら、帰るのが夜遅くなっちゃうよ」
「わかってるよ。でも、原宿がいいの。今時イオンモールで服買う中学生なんかいないよ」
「でも、唯ちゃん、この間までイオンモールにあるお洋服屋さんに通い詰めていたじゃない。あそこにも可愛い服いっぱいあるよ。有名なお店だって揃ってるし」
唯はむっとした顔をした。
「だから陽菜はお子ちゃまなんだよ。田舎の中学生でもないし、東京の中学生は原宿で買い物しなきゃ。恥をかくのは自分なんだから」
陽菜は黙ってしまった。
陽菜たちの住んでいる町は田舎だ。
少し歩けば田んぼもあるし、大きなショッピングセンターといえばイオンモールぐらいしかない。
殆どの子の家が一軒家で、中学生だからといってわざわざ原宿まで買い物に行く子は少ない。
近くのイオンモールも周りのお店からしたらかなり大きく、名店が勢ぞろいしている。
都心に着て行っても恥ずかしくない、おしゃれな服もたくさん売っている。
つい最近までは、毎日のように近所のイオンモールに行って買い物をしていたのだ。
高校生や大学生が着ているお洒落なお店を見つけて、唯はそこの服ばかり買っていた。
それなのに、なぜまだ服が必要なのか陽菜には理解できなかった。
陽菜は東京出身だが、渋谷や原宿などの都心のことはあまりよく知らない。
まだ中学生だからと、子どもたちだけで行くのも学校で禁止されている。
都心の方は治安もあまりよくないので、子どもだけで行動するのは危険なのだ。
しかし、唯はそれをいつも鼻で笑っていた。
今時の中学生が渋谷や原宿に行けないなんておかしい。
東京の子はみんな毎日のように行っているんだと主張していた。
陽菜は気が引けた。
二人だけで原宿に行くこともそうだが、それ以上に家に帰るのが遅くなることが不満だった。
両親も心配するし、もしかしたら学校に通報されるかもしれない。
そうすると、今後はもっと自由に外出できなくなる。
「ねぇ、行かないの。行くの?」
唯は強い口調で陽菜に聞く。
陽菜はきゅっと肩に力が入った。
「行きたくないわけじゃないけど……」
「じゃあ、行こうよ。駅に30分待ち合わせでいい?」
唯は急ぎ足になって、陽菜の前を歩いた。
それを追いかけるようにして、陽菜はついていく。
「あの、私のお母さんも誘っちゃダメ? そろそろ、家に帰ってくると思うし……」
すると驚いた顔で唯が陽菜の方を振り向いた。
「はぁ? 何言ってるの。ただの買い物に親同伴が必要な中学生なんかいる?」
「そ、そうかもだけど、今日はもう遅いし……。やっぱり大人が一緒の方がいいよ」
「嫌よ。大人の横で買い物なんて出来ない。気を遣うし、すぐにあれもだめ、これもだめって言うんだもん。自由ないじゃん。とにかく、30分に駅でね。待ってるから!」
唯はそう言って、家まで駆け出していった。
陽菜は何もいえないまま、唯を見送った。
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