電車を乗り継ぎ、バスに乗り換える。

 タクシー代はイスルギからもらっていたのだが、三ツ橋はあくまで「公共機関を使おう」と言い張った。タクシー代すら惜しいらしい。あれだけ羽振りのいい生活をしていながらいきなり金欠とは、学生のくせに一体どんな暮らしをしているのだ。

 目的地のアパートに着いたのは十六時過ぎだった。季節は梅雨明けしたばかりの七月で、夕方の時刻だったが空はじゅうぶんに明るい。

 強い日差しが、鉄筋コンクリート製の四角い建物を眩しく照らしていた。なのにどことなく暗い空気をまとっているように見えるのが不思議だった。心霊物件という先入観のためか。

 アパートは四階建てで、たいそう古そうに見えた。外廊下の手摺は塗装が剥げて錆が目立ち、くすんだベージュの外壁は縦筋状の汚れで黒ずんでいる。築年数は聞いていないが、下手をすれば昭和に建てられたものかもしれない。

 窓には所々カーテンがかかっていて、他にも住民はいるようだった。

「……行ってみるか」

 じっとアパートを見上げていた三ツ橋が、真顔で意を決したように言った。建物の醸し出す物々しい雰囲気を、三ツ橋も感じたのかもしれない。

 エレベーターは見当たらず、僕たちは外階段を使って二階の角部屋に向かった。

 目的の部屋の直前で三ツ橋は唐突に足をとめた。白い小皿に盛った塩が、ドアを挟むように二つ置かれている。

「なんかこうゆうの……いかにもって感じだよなぁ」

 揶揄するような口調だったが、三ツ橋の顔は強張っていた。

 僕が無言でじっと盛り塩を見つめていると、「暗い顔すんのやめろよ、怖くなっちゃうだろ」と言われた。——そんなつもりはなかったのだが。

 三ツ橋は無造作にポケットから鍵を出して、ドアを開けた。

 室内はリフォームがされていて、予想以上にきれいだった。床には明るい木目柄のクッションシートが張ってあり、角部屋なので採光も良い。——なのに。

(なんか……嫌な感じがするな)

 どうしても薄暗い印象がぬぐえない。

 僕は「おじゃまします」と靴を脱いで上がった。

 玄関を入ってすぐの廊下には、左手側にシンクとコンロ置きがあり、右手側には風呂とトイレのドアがあった。そして突き当りに、畳敷きの居室がひとつ。昔ながらの単身用1DKといったつくりである。

 ふうんと思いながら振り向くと、三ツ橋が狭い玄関で立ったまま俯いていた。

「……入らないの?」

「いや、なんか……」

 三ツ橋は不安げな顔で上目遣いに左右に視線を馳せた。

「あんまりきょろきょろしないほうがいいよ。変なの見ちゃうから」

 僕が言うと、三ツ橋はぎょっと顔を強張らせ、さっと視線を足元に落とした。

 その顔は、ひどく青ざめている。——もう既に見てしまった後かもしれない。

「やめる?」

 いや、と三ツ橋は即答した。だがいつものへらへらした笑みを浮かべることはなかった。

 リタイヤするなら早いほうがいいのに――そう思いながら、僕は居室のふすまをがらりと開けた。

 八畳ほどの畳部屋だった。向かいには窓があり、襖の隣は押入れになっている。

 壁際に透明袋に入った寝具一式が二つ置かれていた。まだ値札が付いたままである。イスルギが運び込んだのだろう。

 一晩くらい畳に雑魚寝でかまわないのに。

 そんなことを思いながら壁際にボストンバッグを置き、振り返ると、三ツ橋はまだ玄関に立ったままだった。見たことない生真面目な顔で、こっちを見ている。

 目が合うと、三ツ橋は——あのさ、と呟き、言いよどんだ。

 明らかに狼狽している。

「……とりあえず入ったら? 落ち着かないから」

 三ツ橋はためらうように上がり框に足を乗せた。そのまま足元に視線を落としたまま、廊下を進む。うっかり妙なものを見てしまわないように、緊張しているのがわかった。

 居間に入っても三ツ橋は立ち尽くしたままだったので、僕は渋々立ち上がって襖を閉めた。

「……いたんだ」

 三ツ橋は唐突に言った。

「えっ?」と思わず聞き返す。

「玄関に入ってすぐ、ここの襖が二センチほど開いてるのに気づいて。……女が、顔だけこっちを見ながら横切って行った」

 三ツ橋は、足元の一点を凝視しながら言った。顔はひどく青ざめ、震えている。

「……どんな?」

「目がない。白い着物着てる」

 思わず襖に目を馳せ——息がとまるほどに驚いた。

 隙間がわずかに開いていた。まさに、二センチほど。

 ついさっき、この手で閉めたはずだった。閉め切ったさいに柱と襖がぶつかった手ごたえもまだ残っている。

 ぞわぞわと怖気おぞけが込み上げ、僕は慌てて視線をさげた。——隙間に、恐ろしいものを見てしまわないように。

「……それだけじゃなくてさ、その……」

 三ツ橋は言いよどむと――いやいいんだ、と顔の前で手を振った。そしてちらちらと押入れに視線をくれている。怯えたように。

 押入れがどうかしたのか、と問うことはできなかった。聞いてしまったら、きっとこの一晩を過ごせなくなってしまう。

 何が起こっても気づかないふりをするのが一番だ。それがものすごく難しいのだが。

 僕はごくりと生唾を飲み込むと、——三ツ橋、と振り返った。

はただ見えるだけだ。を見て五万円もらえる仕事だって思えばいいんだよ」

 三ツ橋は意外そうに僕を見て、そうだな、と笑った。弱々しい、明らかに無理をした笑顔だった。

 居間の窓から、電線越しに燃えるような夕日が見えていた。

 まだまだ明るかったが、僕たちは電気をつけてカーテンをきっちりと閉めた。

 隙間から何かに覗かれないように。窓に映りこまないように。

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