僕はコンビニエンスストアの白々とした明かりを背に、迎えのタクシーを待っていた。

 夜気が冷や冷やとして、長袖のネルシャツの腕をさする。季節は五月初めの初夏であったが、夜はまだまだ肌寒かった。

(上着を着てくればよかったな)

 迎えの場所に自宅から少し離れたコンビニを指定したのは、なんとなく家に来てほしくなかったからだった。

 スマートフォンをポケットから出し、時計表示を確認する。

(……そろそろ二時か)

 僕は夜空を見上げた。雲一つない空に満月が出ていた。

 ――私が担当している分野は『怪』に関する体験だ。

 イスルギの言葉が脳裏に浮かぶ。

 その怪体験なるものと階段を上るという行為が結びつかなくて、僕は帰宅してからもずっともやもやしていたのだった。

 一体何をやらされるのか。

 濃紺の空にぽっかりと浮かぶ柔らかなクリーム色の円をぼうっと眺めていると、眼前の路肩に黒のタクシーがすっと止まった。スマートフォンの時計表示は二時ぴったりを示していた。

 後部座席のドアが音もなく開く。乗り込もうとすると、塗りつぶしたような双眼と目が合った。

「やあこんばんは」

 奥の席に、イスルギが座っていた。

「……こんばんは」

 イスルギは直接現場に向かうのだろうと勝手に思っていた僕は、面食らった。

「路駐は迷惑になるから早く乗りたまえ」

 イスルギは早口で淡々と言った。

(迷惑も何も、車も人も全然いないじゃないか)

 この時間帯は人っ子一人おらず、車もほとんど通らない。

 言われるがままにイスルギの隣に座ると、タクシーのドアはすぐに閉まった。なぜだか退路を塞がれた気がして、言いようのない不安が込み上げた。

「……あの、今からどこに向かうんですか?」

 イスルギは低く呟くようにその場所を答えた。都内の、誰でも知っているような地名だった。だが車でもここから三十分はかかる距離である。

 わざわざそんなところまで行って階段をのぼるんですか――そう問おうとした時、タクシーが低いエンジン音を響かせて出発した。

 僕は思わず口を閉ざす。運転手が前を向いたままほぼ身動ぎせず、始終無言なのもなんだか怖かった。

「ところで……君はを知ってるかな?」

 イスルギはいつもと変わらない調子で唐突に言った。

「……小学校とかの怪談話ですよね。夜中に忘れ物を取りに行くと、十二段だったはずの階段が十三段になるとか」

「そう。怪異が起こる恐怖の階段だ。幾つものバリエーションがあってね。その十三段目を踏むと行方不明になる、死ぬ、得体の知れない人ならざるものが現れる、またそれに襲われる、またさらわれる。十三段目の天井から首吊り用のロープが下がっているというパターンもある」

 はあ、と僕は相槌をうった。

「元々、十三階段というのは絞首台の異称だ。ポツダム宣言後の極東国際軍事裁判――いわゆる東京裁判での処刑台の段数からきたものだと言われているよ。ちなみにキリスト教文化では十三という数は不吉と考えられている。いわゆる忌み数というやつだな。キリストの処刑された日が十三日の金曜日であることは日本でも有名だろう。また、サタンが十三番目の天使であるとされていたり、イエスを裏切ったユダが最後の晩餐で着いたとされているのが十三番の席だと言われていたり――しかも面白いのが、これらはすべて俗説で、聖書にはっきりとした記述はないそうだ。そういった様々な要因ファクターを小学校の怪談は取り込んでいったわけだな」

 イスルギの抑揚の少ない低い声で話されると、何でもない蘊蓄うんちくもなんだか怖く聞こえた。イスルギ自体が不気味な雰囲気を醸しているからかもしれない。

「さらに面白いのが、この十三階段が学校だけに限らず病院やマンションなどといった他の建築物にも派生しているということだ。しかし舞台が学校から離れただけで同じ現象でも怪談でなく都市伝説と言ったほうがしっくりくるね」

「……今から僕がのぼらされる階段が、その十三階段ってことですか」

 鋭いじゃないかとイスルギは言った。

 そんなの、話の流れで誰だって気付く。なんだか小馬鹿にされたようで僕はむっとした。

「まさに十三階段の噂がある廃ビルがあるんだ。そこで『怪奇現象が起こると言われているビルを散策する体験』と『恐怖する感情』を記録する」

「……お金を払ってまで恐ろしい体験をしてみたい人がいるなんて、僕にはいまいち理解できないのですけど。かなりニッチな需要なんじゃないですか?」

 イスルギは眉をひそめた。

「何を言っているんだね。心霊スポット巡りは娯楽としてはかなり人気が高いのだよ。——君は、人はなぜ身の毛のよだつホラー映画や小説、ゲームをやりたがるのか考えたことがあるかね? ちょっとした物音にびくつきながら、照明もテレビもつけっぱなしで眠れぬ夜を過ごし、もう二度とホラー映画は観ないと心に誓いながらもついまた観てしまう。よくあるだろう」

 僕はないですとの言葉を無視して、イスルギは続けた。

「ホラーには依存性があるんだ。それには明確な理由がある。脳神経科学によると、恐怖の処理に関係する脳の部位と快感の処理に関係する脳の部位はかなり重複しているそうだ。人間は実際の危険は何もなしに恐怖を味わうことに快感を覚えているというわけだ。ちなみにね、アメリカ人がホラー映画に支出するお金は一年間に五億ドルにもなるそうだよ」

 怖さは金になるのだとイスルギは言った。

「でも僕は大人だし……廃墟なんかに行ったってそんなに怖がれないと思うんですけど」

「心配しなくても、そこはだから」

 意味ありげな台詞だった。いぶかしげに見上げた僕を、イスルギは斜に見返す。

「そのビルはな、噂だけでなく実際に行方不明者が何人も出ているんだ。もともとは平成初期に建てられたテナントビルだったそうだが、深夜まで残っていた社員や夜勤の警備員などの不可解な失踪が後を絶たなかったそうだ。現在は事務所や店舗もすべて撤退し、廃ビルとなっているが、その後も不法侵入した浮浪者がよく消えるらしい」

(実際に、人が消えている……?)

 いきなりぞっとした。夜のビル内で人の失踪する何かが起こっていることは確かなのだ。原因が心霊的な何かであってもなくても、危険なのではないだろうか。

「そう不安そうな顔をすることはないよ。怪奇現象なんてそう狙って起こるものではないんだから。むしろ我々にとっては、実際に怪異が起こるか起こらないかはあまり重要ではない。を求めているんだからな」

 そっと言い聞かせるような声音だった。

「まあ実際に怪異が起こって君が神隠しにあったりすれば、その経験の値は天井知らずにつり上がるだろうが――そううまくは行かないだろうね」

 イスルギは薄く笑うと、車窓の闇に目を向けた。

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