②
叔父はさきほどと何一つ変わらないまま、弛緩した表情で介護ベッドに横たわっていた。
(何なんだ一体)
多少の常識すらも持ち合わせていないのか。いや、自分には何をやってもいいと思っているのだ。
憤りがおさまらぬまま、すっかり冷えてしまったタオルを手に取る。また温めなおさねばならない。
そこで間宮ははっとした。イスルギはお見舞いと言っていなかっただろうか。
奇行にばかり気を取られてしまっていたが――彼は叔父に会いにきたのか?
(何のために……?)
妙な胸騒ぎがした。
「彼が例の叔父さんか」
背後からの声に、間宮は息が止まるほどに驚いた。
閉めたはずの居室のドアが開いていて、戸口にイスルギが立っていた。手にしたロイヤルコペンハーゲンの絵付け皿の上には、きれいに皮を剥かれ、六等分された林檎が乗っている。
「こんなところまで入ってくるなんて……!」
「大丈夫、君の家以外ではこんな非常識なことはしないから。しかし君は叔父さんの整容までしているのか」
「おむつ替えや食事の介助、歯磨きだってやりますよ」
間宮は投げやりに言った。
「訪問介護サービスは受けていないのか? 君の世帯ならば自己負担は無料だろう」
「大学とアルバイトの時間はヘルパーさんを利用してます。そうでない日は僕が面倒をみているんです」
若い身空でなあと言いながら、イスルギは部屋に入りこむ。
「それにしてもマメだな。髭など数日ぐらいほっといても死にはしないだろうに」
「僕が気になるからやっているだけです。
わかるよ、とイスルギは言った。
「構わず続けてくれたまえ。私はここで林檎でも食べているから」
イスルギは林檎を一切れ摘まみ上げるとしゃくしゃくと齧った。
(……本当に何しに来たんだこの人)
間宮はもう言葉も出ず、すべてを諦めて居室を後にする。
キッチンでタオルをゆすいでレンジで温め、居室に戻ると、イスルギが叔父の顔を覗きこんでいた。
「ちょっと! 近づかないでもらえますか」
ぎょっと駆け寄った間宮を無視し、イスルギは「意思の疎通はできるのかな?」と叔父の何も映していない目を見つめた。
「これでは無理そうか」
「そこを
間宮が両手に蒸しタオルを掲げたまま睨むと、イスルギは目を細めて引き下がった。
叔父に真向かい、喉元を蒸しタオルで温める。喉にシェービングクリームを塗り広げてゆくさまを、イスルギはドア付近の壁にもたれながら興味深そうに見ていた。
「君の記憶で見たときは
「叔父は四十二歳ですよ」
年上か――イスルギは「それは失礼」と言ってあらためて叔父の顔をじっと見つめた。
「童顔だなぁ、君と同じで。面影も――少し君と似てるかな」
間宮は「やめてください」と吐き捨て、
「手慣れているな。私もやってもらいたいものだ」
軽口を無視しながら、間宮は表情一つ変えずに淡々と作業を進めていった。
「……そのカミソリで、喉を掻っ切ってしまいたいとは思わないのかね」
「いいえ」
イスルギは剃刀の峰の部分が肌を這い降りてゆくさまを眺めながら続けた。
「彼は自分の家族を皆殺しにした男だろう。なぜ自ら世話をしている?」
間宮は答えなかった。
「病院か施設に入れてしまえばいいじゃないか。空きがないのなら、私のつてでそれなりの所ににねじ込んであげるよ」
「——は?」
思いっきり不審げな目を向けた間宮に、イスルギは重ねて言った。
「お金の心配だってしなくていい。こっちが持つ。君の叔父さんの面倒は今後私たちがみると言っているんだ」
「何でただのアルバイトにそんなことするんですか? おかしすぎるでしょう」
イスルギは低く笑った。
「そんな怖い目で見てくれないでくれたまえよ。うまい話で騙そうとか、そういう意図はない。心配せずとも――こっちにも下心があるんだ」
そう言いながらイスルギは、スーツのポケットから測定装置を出した。
「叔父さんに、これをつけてもらいたい」
間宮はたちまち表情を厳しくした。
イスルギは叔父に目を馳せる。
「彼と交渉が可能なら金で直談判するつもりだったが――出来なそうだからな。叔父さんの主治医や担当の訪問介護員にも当たってみたが、やはり皆、口をそろえて意思の疎通は難しいと言っていた。本人の許可が取れないとなれば、唯一の身内である君の許可が欲しい」
「……なんであなたが先生やヘルパーさんと接触してるんですか」
「なあ、間宮くん。いいだろう? 君にとっても悪い話ではないはずだ」
責める口調にもイスルギはまったく動じる様子はなく、間宮は小さく息を吐いた。
叔父の方に向き直ると、その喉元に目を馳せる。剃り残しがないか確認し、蒸しタオルで肌を拭きあげた。
「狂人の意識なんか、体験したい人がいるんですか?」
「いるよ。君が予想しているよりもかなり大勢ね。殺人犯のデータというだけで付加価値がつくんだ。人は自分では想像もつかない価値観や体験にこそ興味を抱くものだ。その記憶、感情、想い——それが強烈であったり、常人離れしていればいるほど需要が高い」
イスルギは文机に置いた大皿から林檎を一切れつまんで齧った。
「奇特な金持ちの娯楽という側面だけじゃない。医学的な貢献にもなる。なにせ精神疾患の患者の頭の中を知ることができるのだからな。叔父さんは解離性障害と診断されているそうじゃないか。同じ病気で苦しんでいる人の治療の一助となるだろう」
「つまり、医療方面にも高値で売れると?」
まあ明け透けに言うとそうだな——イスルギは残りの林檎片を口に放り込んで咀嚼する。
「それに、叔父さんを体験することで犯行の動機が分かるかもしれないよ。君は知りたくないのかね。伯父さんが家族に手をかけた理由を」
「別に」
間宮は盥の水で剃刀を濯ぎながら言った。
「叔父さんの面倒はみてもらわなくても結構です。こっちだって叔父さんの同居にはメリットあるんだ」
「メリット?」
イスルギが不可解そうに眉根を寄せた。それを間宮は見返す。
「叔父さんの生活保護費ですよ。大学生はどんなに困窮していようが生活保護を受給できませんから」
「——嘘だな」
イスルギは重い眼差しで間宮を見据えた。
「たった月八万ほどの金のために負える負担じゃないだろう。それとな、叔父さんの生活保護費など生活費や介護にかかる費用でかえって赤字になっていることは調べがついているんだ。君がご両親が遺した遺産まで切り崩して生活していることもな」
「調べがついてるって……どうゆうことですか? 聞き捨てならないんですけど」
きつく問うた間宮を、イスルギは無視して続けた。
「君にとって叔父との同居の利点はまったくないといっていい。なのにどうして両親の仇の世話などしている? あんなアルバイトまでして」
「あなたには関係のない話でしょう」
間宮は冷たく言い放つと、盥の乗ったトレイの端に剃刀とタオルを乗せて持ちあげた。イスルギの前を通過して部屋を出る。
「君の私に対する態度が日を追うごとに冷たくなっている気がするなぁ」
それだけのことをしていておいて何を言う——間宮は内心で毒づきながら、盥の水をこぼさぬよう、慎重に廊下を進んだ。
その取り付く島のない態度にイスルギは小さく息を吐く。林檎の乗った皿を手にし、後ろをついてきながら言った。
「……交渉相手が君になったことで、より難易度が上がったな。せめて君の叔父さんがどこぞの病院か施設にでも入っていてくれたなら何とでもなったのに」
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