最終話 触穢
一
①
男は介護ベッドに力なく横たわったまま、
間宮はその傍らに立ち、どこを見ているかわからない
その血色の悪い肌に刃を押し付ける。
ぶつぶつぶつぶつ。耳元では怨嗟とも妄言ともつかぬものが絶えず呟かれていた。
それは耳をすまさねば聞き取れぬほどの小声であったが、聞こえにくいほどに間宮の耳は勝手に声に集中してしまうのだった。
――聞きたくなどないのに。
当初は気が狂いそうになったが、やがてそれも慣れた。だが、こうやって
髭剃りは繊細な行為である。他人の肌であれば余計だ。手元に集中しようとすればするほど呟きは耳から脳に沁みこんでゆき、間宮の意識ははからずも声に没頭していった。
その時、インターホンが鳴った。
間宮は我に返り、はっと短い息を吐いた。
(――客?)
誰だろう。休日に訪問介護は入れていない。
リビングの入り口に設置されたインターホンのモニターを見やり、間宮は思わずぽかんとしてしまった。
玄関に立っていたのはイスルギだったのだ。
いつもの黒一色のスーツに、手に提げた大ぶりの紙袋は白く、まるで背景の一部が不自然にモノクロになったようだった。
「何しに来たんですか?」
反射的に嫌な声を漏らす間宮に、イスルギは紙袋を掲げて見せた。
「事務所にあった忘れ物を届けに来たんだ」
(忘れ物?)
間宮は目を
「少し待ってもらえますか?」
間宮はインターホンにそう告げると、通話を切った。
部屋に戻って、ちらと叔父の様子を確認する。叔父は身じろぎひとつせず、死んだ魚のような目で虚空の一点を見つめていた。
玄関ドアを開けると、心地よく乾いた秋風が間宮の頬を掠めた。
午後の陽光が、向かいの家のきれいに剪定された生垣を眩しく照り返している。そんな
「やあ」
淡々と言ったイスルギに、間宮は会釈を返す。
それにしても。なぜこの人は日中から不穏な空気を醸し出せるのか。場違いな黒スーツのせいばかりでないだろう。悪質な内面が滲み出ているのに違いない——間宮は密かにそんなことを思う。
「わざわざ届けてもらってすみません。僕、忘れ物なんかしましたっけ」
「嘘だよ」
目を見開いた間宮を、イスルギはにやりと見返した。
「そうでも言わないと門前払いにされると思ってね。――実は君の叔父さんのお見舞いに来たんだ」
そう言いながらイスルギが紙袋からがさがさと取り出したものは、一抱えもある籠に盛られた果物の詰め合わせだった。しかもラッピングには老舗高級デパートのロゴが入っている。
間宮は唖然とした。威圧感すら覚える
「そうゆうのいいんで。今、取り込んでるんです」
間宮は「失礼します」と切り捨てるように言い、真鍮のドアノブを引いた。その一瞬の間に、イスルギはドアの隙間に革靴の先を突っ込む。
どうゆうつもりだ――間宮はイスルギを睨み上げた。
「……叔父の介護中なんです。出直してもらっていいですか?」
「終わるまで中で待たせてもらうよ」
イスルギはドアの縁をつかんで強引に引き開け、玄関に侵入した。靴を脱ぎ、ずかずかと廊下を進んでゆく。
「何を勝手に上がり込んでるんですか、通報されてもおかしくないですよ!」
「だが君はそんなことはしないだろう」
勝手にダイニングに入って行くイスルギを、間宮は慌てて追った。
「男所帯にしては綺麗にしてるじゃないか」
イスルギはテーブルに果物の籠を置いた。続いて紙袋から大小の化粧箱を出し、大きい箱の包装紙——果物籠のラッピングと同じデパートのロゴが入った——を剥がし始めた。
箱の中身に間宮はぎょっとする。ロイヤルコペンハーゲンの絵付け大皿だった。イスルギはそれを無造作にごとんとテーブルに置き、続いて小さいほうの箱を手にした。高価そうな桐箱から出したのは小ぶりのナイフだった。
(わざわざ買ってきたのか?)
イスルギは持参した一式を持って、勝手にキッチンカウンターに立つ。
「果物は嫌いかな」
間宮は開いた口が塞がらなかった。
「あの、本当に叔父の髭剃りの途中なんです」
「では待っているから済ませてきたまえ」
イスルギは間宮を見もせずに、手ずから林檎を剥きながら言った。
あまりの身勝手さに怒りが込み上げたが――どうしようもない変人の対応は後回しにすることにし、間宮はすぐさま叔父の居室に戻った。
叔父をそのままにしておくわけにもいかない。
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