結局、発熱時は濃厚アイスよりカキ氷系のほうが食べやすいだろうとサクレを買った。

 氷の重さに辟易しながら、夜道を早足で歩く。測定装置の時計表示を見ると、十九時近くになっていた。

 外階段を急ぎ足であがり、ようやく部屋の前に着いた。

(三ツ橋、まだ寝てるかな)

 ドアノブに手を伸ばしかけ――ふと視線が足元で止まった。

 盛り塩が黒ずんでいる。

 唐突に悪寒が走った。

 思わず手をひっこめてしまった。ドアの隙間から瘴気が染み出ているように思えたのだ。

 ――落ち着け。よく考えろ。

 今日、何度心中で呟いたかわからない言葉を心中で繰り返す。――何かされたか?

 だ。何もされてない。

 それに、今となっては見間違えかもしれないという気さえする。蛇口から髪など――。

 思い出して、恐怖が腹から突き上げそうになり――慌てて浮かんだ映像を意識から外した。

 イスルギは、のちの生活にあと引くようなことは何も起きない。ただ怖い思いをするだけだと言っていた。

 なにがあってもだけだ。ならばこの場限りのものだと我慢すればいい——。

(——なんて、思えない……)

 ただ怖いだけが、どんなにしんどいことか。

 僕は生唾を何度も飲み込んだ。意を決し、そっとドアを開ける。呼吸を押さえ、俯き加減で玄関に入った。

 正面突き当りの居間の襖が半分ほど開いていた。隙間から三ツ橋の後ろ姿が見えている。

 ――起きたのか。

 三ツ橋は蛍光灯の妙に白々とした明かりの下で、胡坐あぐらをかいて座っていた。スマホでも弄っているのか、背を丸めてうつむいている。

(電子機器はやめたほうがいいって言ったのに)

 恐怖よりもスマホ依存のほうが強いとは。

 なんだか呆れてしまって、とたんに恐怖が和らいだ。とりあえず身を起こすくらいには楽になったのだとほっとする。

 黒く変色した盛り塩が脳裏をよぎったが――三ツ橋が回復したとなればさほど気にすることはないのかもしれない。イスルギが悪意を持ってやった悪戯の可能性だってある。僕らをより怖がらせるために。

 僕は靴を脱いで廊下にあがり、シンク隣のスペースに買い物袋を置いた。

「ただいま。アイス買ってきたんだけど……」

 食べるかと問いかけ――声が喉に貼りついた。

 三ツ橋の真ん前に何かが座っていることに気付いたのだ。

 腰の辺りまで伸びている長い髪の毛、極端に痩せた体格、白い浴衣のような着物――経帷子というのだろうか。だが、その顔は三ツ橋の背中に隠れている。

 三ツ橋の見た女だとわかった。正座をし、額を突き合わせる近さで三ツ橋の顔を覗きこんでいる。三ツ橋は身じろぎもせず、首をがくりと垂れたままだった。

 恐ろしさのあまり、足ががくがくと震え出した。

 見ては駄目だ。あれはよくないものだ。なのに金縛りにあったように視線は女から離れなかった。

 やがて女は、すっと顔を上げた。

 目が無かった。のっぺらぼうではなく、小さい穴がひとつついているだけだった。

 まずい、と思った瞬間にはもう、侵入はいられていた。足が居間に吸い寄せられるように勝手に歩き出す。

 やめろ——意思に反し、手は半分開いた襖を引き開けた。三ツ橋の横顔が視界の端に映った。くうの一点を見つめ、弛緩した口からは涎が顎に伝っている。

 僕の体は居間に入ると、まっすぐ押入れに向かった。

 押し入れの扉は、居間の入り口と同じ、何の変哲もない襖だった。足はその前でぴたりとまった。

 心臓がばくばくと脈打っていた。頭の中で警鐘が鳴っている。——ぜったいに開けては駄目だ。

 だが、僕の手はあっさりと押入れを引き開けた。

 視線が勝手に下段をとらえた。中の壁紙は張り替えられてはいたが、ところどころ何かをこぼしたような染みが浮き出ていた。

 奥に、クッキーの丸缶がぽつんと置いてあった。錆びてずいぶんと古いもののようだった。そこだけ時代が遡ったような、異様な雰囲気だった。

 そこで自分の体がやろうとしていることに気付いた。呼吸が切迫する。

(い、嫌だ!)

 必死の抵抗もむなしく、体は勝手に膝をつくと押入れの下段に這入はいっていった。

 中は何とも言えない異臭がこもっていた。えたような――胸の悪くなるようなにおいだった。

 吐き気を必死にこらえる一方で、手は機械的にクッキー缶を掴み、引き寄せた。

(……やめてくれ)

 錆びた蓋に爪をこじ入れ、ぐっと力を入れる。僅かな抵抗はあったが、蓋は容易に開いた。

 その中身に、戦慄が込み上げた。大量の爪が入っていたのだ。いずれも黒ずんでいる。その中に干からびたものが混じっていた。一本、二本、三本――。

(これは……指……?)

 いずれも細く小さく――幼い子供のものだ。

 あまりのことに、一瞬、意識が遠のきかけた。途端とたんに、景色が一変した。

 押入れの壁紙は黄色い土壁に変わり、無数のひっかき傷が浮かび上がった。退色した染みは瞬く間に濃い茶褐色に変わってゆく。

 呆然としていると、強烈な臭いが目や喉を刺激した。涙が滲むほどだった。それが血の臭い、そして便臭だと気づく。

 背後に冷え冷えとした空気を感じた。

 ――あの女だ。

 しかも、すぐ後ろにいる。

 自分のものでない、痛烈な恐怖と悲しみが込み上げた。どこか諦めているような寂寥感も含まれている。この感情は、この缶に入っていた指の子のものだ。

 ああああ――。

 断末魔の声が聞こえる。それが自分の声なのか、どこか別のところから聞こえているのかわからなかった。

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