僕たちはすぐに時間を持て余してしまった。

 落ち着かなそうにしていた三ツ橋は、スマートフォンを出して眺めはじめた。

 僕はボストンバッグを引き寄せ、中から小説を一冊取り出す。

「本なんて持ってきてんの?」

 三ツ橋は意外そうに僕を見た。

「うん。ミステリーだよ。読んでると時間飛ぶやつ」

 三ツ橋は「へえー」と小説の表紙を一瞥し、再びスマートフォンの画面に視線を落とす。

「電子機器はやめたほうがいいよ。映り込むかもしれないから」

 三ツ橋はびくりとした。

「よかったら読む? 何冊か家から持ってきたんだ」

 僕はボストンバッグから次々と文庫を出して畳に積んでいった。最後に「ホラーもある」と恐ろしげな表紙の本をミステリーの上に乗せると、三ツ橋は「馬鹿じゃねえの」となかば本気で気色ばんだ。

 僕は驚き、慌てて「ごめん」と謝ると、ホラー小説をボストンバックに突っ込んだ。別の一冊を本の山から抜いて差し出す。

「これなら怖くないよ」

 三ツ橋はふてくされた顔でそれを一瞥し、僕のすすめた一冊でなく、一番薄い文庫本を手に取った。「なんで漫画じゃないんだよ」と文句を言いながらもページを開く。

 ぺらぺらと眺め、すぐにあきらめたように放り出して溜め息を吐いた。

「コンビニでエロ本でも買ってこようぜ。厄除けにさぁ」

「はぁ?」

 眉をひそめた僕に、三ツ橋はにやっと笑ってみせた。

「幽霊って下ネタ苦手らしいぜ? 寄ってこないらしい。イスルギさんが言ってた」

「嫌だよ。持ち歩きたくないし、買うのだって恥ずかしいじゃないか」

「中坊かよ」

 三ツ橋は呆れたように片眉を上げた。

「間宮ってさぁ、そうゆう話題ぜんぜん乗ってこなさそうだよな。興味ねえの?」

 ないよ、と僕が返すと「ないのかよ」とさらに呆れた顔をする。

「その歳でかえって不健全だろ」

「そうだよ。まともじゃないんだよ僕は」

 ふいっと顔を背けた僕に、三ツ橋はにじりよってきた。

「お兄さんが色々教えてやろうか」

「何がお兄さんだよ、同い年だろ」

 僕がぎょっと後退あとずさりすると、三ツ橋はふいに笑い出した。

「あんなにびくびくしてたのにさあ、くだんねえ話するだけで怖さ吹っ飛ぶってすごくねえ?」

 やっぱエロって偉大だわ、と三ツ橋は妙に生真面目な表情になって頷いた。

 そのまま布団セットにぼすんと背を預けると「そういやさぁ、理工学部で爆発あったの知ってる?」と唐突に話し出した。僕を巻き込んで暇つぶしをするつもりのようだった。

 爆発事故の話を皮切りに、三ツ橋のとめどない、またとりとめのない話が続いた。次から次へと芋づる式に話題を提供してゆく。

 以前も思ったが、尋常でない会話能力の高さである。しかも飽きさせない。

 頭がいいんだろうなと思った。しかも相槌すら満足に打てない僕相手に。頭軽そうに見せてはいるが、本当はすごいやつなのかもしれない。

 そのまま三ツ橋のくだらない話にぐだぐだと付き合っているうちに夜が明け、アルバイトは終了になると思っていた。

 ところが一時間ばかり経ったころ、急に三ツ橋は言葉少なくなった。やがて無言になり——うつむいてしまった。

「ネタ切れ? それともまたなんか見た?」

 やめろよ、と三ツ橋は眉根を寄せた。

「なんか……頭痛くて」

 その余裕のない表情に、僕はからかったことをたちまち後悔した。

 すぐさま立ち上がり、布団の梱包を解いて畳に敷いた。

 三ツ橋はごめんと呟き、倒れ込むように横になった。呼吸がかすかに荒くなっている。その本気で辛そうなさまに、僕は愕然とした。――急にどうしたというのだ。

 掛け布団をかけてやると、三ツ橋は力なく目を瞑る。そっとその額に触れた。

(……発熱してる)

 寒い、と言うので自分用の布団セットの梱包も解き、掛け布団をさらに一枚、上から被せてやった。

 まだ汗ばむ気温ではないが、もう七月である。半袖が普通の季節だ。なのに布団二枚重ねでもまだ震えがとまらないようだった。

 ――霊障というやつだろうか。

 僕は息を飲むと、その青ざめた顔を見つめて言った。

「……イスルギさんに連絡しようか」

 いや、と三ツ橋は力なく声を漏らした。

「どうせ帰ったって寝るだけだから……。だったらここで寝たっておんなじだし。……金も欲しいし、頑張ってみる」

 そうだよな、と僕は納得してしまう。

 一晩耐えれば五万円なのだ。自分が同じ立場でも続けさせてくれと言うだろう。翌朝の八時までの約十五時間、耐えればいいのだ。

「……それにさ、間宮がどんと構えてるからか、あんまし怖くないんだよ」

 ぽかんとしてしまった。僕のどこがどんと構えているというのだ。

(……僕だって怖いんだからな)

 正直なところ、三ツ橋が続けると聞いてほっとした。三ツ橋のがこの1DKのどこかにいると思うと——。

 ——目がない。

 ぞわっと怖気おぞけが込み上げた。かたく目を瞑って目のない女の映像を脳裏から追い出す。

 そんなものがいる心霊物件で一晩ひとりきりで過ごすのはさすがにきつすぎる。

 僕は自分のボストンバックからフェイスタオルを出した。

「……タオル冷やしてくる。待ってて」

 襖は開けっ放しにしていた。いちいち開けるのが怖いからだ。すると今度は振り返るのが怖くなってしまった。廊下に——いるかもしれない。

(……絶対に見たくない)

 知らず耳を澄まし、背後——廊下の気配を窺った。

 聞こえるのは三ツ橋のかすかな呼吸音のみだった。

 僕は視線を膝に落としたまま、及び腰でそろそろと体の向きを変える。思い切って畳の目から顔を上げたが――そこには何もいなかった。

 ほうっと息を吐いた。傍から見たらさぞ滑稽だろうと思う。僕はそっと廊下に出た。

 こうゆう時に息をひそめてしまうのはなぜだろう。むしろ盛大に足音を立てて大声でがなり立てたほうが、幽霊も出てこないのじゃないだろうか。そう思いつつも、それも怖くてできないのだった。

 小さな銀色のシンクを意識的に凝視しながらじりじりと廊下を進む。視界の端に怖いものがふいに入りこまないように、何かのはずみに妙なものを見てしまわないように——。

 結局何も起こらぬまま、十歩ほど先のシンクの前に着いた。ほんの数秒の道程だったというのに、ものすごい疲労感である。

 なんだか馬鹿馬鹿しくなってきた。

 お化けなんて、見たってただ怖いだけじゃないか。現実社会にはもっと恐ろしいものは沢山ある。

 そんなことを考えながら蛇口をひねると――長い黒髪がどろどろ溢れ出てきた。

 僕は飛び退すさった。

 まばたきすると、普通の流水に戻っていた。

 全身からどっと冷や汗が噴き出し、心臓がばくばくと脈打っている。

(……だめだ)

 とてもこの水に触れる気にはなれない。

(コンビニに行こう。氷だって売っているし)

 三ツ橋は、あんな状態でもきっと一緒に来たがるだろう。自分だって、この部屋に一人残るくらいなら足が折れてたって這ってでもついていくと思う。

 三ツ橋もなんとか連れて行こうと決めた。それに、あんなに弱っている三ツ橋を一人にしたら——

 僕は早足で居間に戻った。声を掛けようと三ツ橋の顔を覗き込むと、すうすうと寝息を立てていた。

 僕は少しほっとした。眠っている今のうちに行ってしまおう。そうすれば無理させずに済む。

 一人にしたらまずいだろうか――一瞬そんな思いがよぎったが、百メートルほど先のコンビニに行くだけだと思い直す。寝入ったばかりだし、すぐに戻れば、きっとそれまで起きないはずだ。

 僕は一応、「コンビニ行ってくる」と書き置きし、財布をつかむとそっと部屋を後にした。

 電気はもちろんつけっぱなしだ。鍵も開けておく。何かあっても、三ツ橋がすぐに逃げ出せるように。

 外はすっかり陽が暮れて、薄暗くなり始めていた。

 アパートの前を、仕事帰りのサラリーマンや部活帰りの中学生が自転車で横切ってゆく。

 外の空気は平穏そのもので、あの部屋とは別世界のようだった。

 大きく深呼吸する。なんだか生き返ったようだ。あれだけびくびくしていたのが馬鹿らしく思え、なんだか気が抜けてしまった。

(まずは水と氷。あとはポカリと、夕飯ゆうはんも買おう)

 食欲などまったくなかったが、とりあえず買って帰ろうと思う。三ツ橋の分も。

 普段ならスルー一択のハーゲンダッツも買ってやろうと決めた。

 レシートは経費としてイスルギに押し付ければいいのだ。

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