三
①
目覚めると、そこはイスルギの事務所だった。
黒革のソファーに仰向けに寝かされた状態で、僕は短い息を吐いた。
(……戻れたのか?)
身体から汗と埃で饐えたようなにおいがする。疲労で全身が軋むようだった。
向かいのソファーにはイスルギが掛けていた。腕と足を組み、不機嫌そうな面持ちでこっちをじっと見据えている。
「……どうやって僕を助け出したんですか……」
「何を言ってるんだ。君はずっとあの場に居たよ。私はただ、
イスルギはふんと鼻を鳴らし、眉間の皴をさらに深くした。
「アレが君に何をするのか、君がどんなふうに神隠しに遭うのかまで記録したかったのに」
そう悔しげに言うさまに、僕は怒りを通り越して呆れかえった。――本人の前で言うことか。
そもそも怒る気力はまったく残っていなかった。僕は安堵と疲労の入り混じった溜息を吐いた。
それよりだ、とイスルギは真っ黒な双眸で僕を見下ろした。
「君は肝が据わっているな。普通ならパニックになって泣き叫ぶか、気が狂うところだ。そうゆう劇的な演出を伴う恐怖体験が喜ばれるというのに――君はそうでないどころか、あんな状態で私を脅すとは」
イスルギはぐっと悔しげに唇を引きむすび、僕を睨む。
「……まさか体の一部を
ああこれ、と僕はかたく握りこんだ
「入手も何も……これは僕のです」
イスルギはぽかんと僕を見返した。そのイスルギらしくない表情に、僕はかすかに笑った。
「これがあなたの髪だなんて、僕、一言でも言いました?」
ただの階段じゃないんですか――そう問うた僕に、イスルギは「誰がそんなことを言った?」と返した。その意趣返しのつもりで言ってやったのだ。
イスルギはぐっと怒りに顔を歪ませた。立ち上がってガラステーブルを回り込み、僕の胸倉をつかんだ。
殴られる——僕はとっさにかたく目を瞑った。
だが、痛みは来なかった。かわりに、シャツの胸ポケットに二つ折りにした封筒をぐいっとねじ込まれる。
封筒の厚みに、僕はぎょっと顔を強張らせた。イスルギは額に青筋を立てたまま、「取っておきたまえ」と言い捨てた。
「ちょっとこんなには……!」
受け取れませんと言う僕を、イスルギは睥睨した。口の端を歪ませて笑う。
「君は面白いな。すごく気に入った。――またお願いするからよろしく頼むよ」
僕は目を見開いた。
「い、嫌です」
すぐさま拒否したが、イスルギは僕の言葉を無視し、肩を怒らせながら奥のドアに引っ込んでしまった。
(……とんでもない人と関わってしまった)
白黒の部屋に一人残された僕は、呆然とするほかはなかった。
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