その時。ふいに下腹に鋭い痛みを感じた。視線を下げると、いくつもの顔が逃がすかとばかりに恐ろしい形相で僕の服に食らいついていた。そのうちの一人が肌を噛んだのだ。

 とっさに男の腕から手を離し、その顔を拳で叩いた。鼻血が噴きこぼれ、顔は力なく呻いて泣き出した。

 血の涙がシャツを赤くにじませてゆくさまに、僕は思わず見入った。誰かの顔面を殴るなど、普通に生きていれば一生無縁であろう暴力だった。

 鼻骨の砕ける生々しい感触が手に残っている。――僕の中で何かがぷつりと切れた。

 僕は片手で化け物の頭を押し返しながら、もう一方の手で男の指を順にへし折っていった。やっと男の腕を引き剥がすと、服を噛む顔を片端から殴ってゆく。スニーカーで足掻くように化け物の腹を蹴る。顔たちの皮膚がずるりと剥け、そいつらは「ああああ」と耳を塞ぎたくなるような声を上げた。

 もう無我夢中だった。なかば正気を失っていたのかもしれない。

 そんな中、イスルギの台詞が脳裏によぎった。

 ――ご両親は他界されているそうだね。

 イスルギは、消えても探す人のいない、悲しむ者もいない、あとくされのない人間が欲しかったのだ。

 三ツ橋は僕がことを知っていたのだろうか。

 詳細は知らなくとも、ろくな仕事でないのはわかっていたはずだ。だからこそたくさんの友人の中からでなく親しくもない僕を紹介したのだろう。

 悔しさのあまり、涙が滲んだ。

 この感情も記録されているのだろう。そして誰かの道楽やストレス解消に使われるのだ。

 そう思ったとたん、かっと怒りが込み上げた。目の前の恐怖が霞むほどに悔しかった。

 僕は腕に巻いた測定装置に目を馳せる。

(こんなもの外してやる)

 手首を口元に持ってゆき、ベルトを噛んでひっぱった。

 そこでふと、気付いた。

(……僕がこの化け物に捕まったら、イスルギさんはこの時計をどうやって回収するつもりだ?)

 行方不明になるということは、死体すら戻らないのだろう。ならばこの測定装置ごと消えてしまうのではないだろうか。

 ではどうやってイスルギはこの経験を回収するつもりなのか。

(もしかして、リアルタイムで情報を外部に送っているのか? なら、この場で助けを求めれば、外部に届く……?)

 その時。マニュキュアの手が、化け物の頭部を押さえていた僕の手を振り払った。

 しまった――思わず視線を向けた瞬間、化け物もまた顔を上げた。

 目も鼻もないつるりとした顔に、耳まで大きく裂けた口がひとつ――。

「うわあああ!!」

 恐怖が突き抜けた。

「イスルギさん!! もう終わりにします!! お金なんていらないから助けてください!! 聞こえてるんでしょう!?」

 測定装置は何の反応もなかった。

 情報の送信は一方通行で、向こうからは返信できないのかもしれない。そもそもイスルギに声が届いている確証などない。

 だが僕は、一縷の望みにかけて叫んだ。

、道連れにしますよ!!」

 化け物がずいっと顔を近づけてきた。

 恐怖が突き上げ、身をよじって階段に這い上がろうとしたところを、幼い手につかまれた。四本の腕がわらわらと身体にかかってゆき、押さえつけられる。

 僕はなされるがまま、はっはっと喘ぐように息を荒げた。

 見下ろす化け物の裂けた口が湾曲する。笑ったのだ。

 顔たちの声も、いつの間にか笑い声に変わっていた。

 終わりだ――そう思った瞬間、測定装置の沈黙が揺らいだ。

『……とはなんだ? 何を持っている?』

 イスルギのくぐもった声だった。

 僕は息を飲み込んだ。全身の毛が逆立ったようだった。

「……髪の毛ですよ」

 がちがちと震える歯を食いしばりながら、やっと言う。

 絶句したような沈黙があった。

『どうして私の髪など持っている? いつ入手した? 事務所でか?』

 イスルギの狼狽した声が響いた。だが僕はそれに答えなかった。答えられなかったと言っていい。

 もう、化け物は目の前だった。

 ふいに手が無理やり開かれる感覚がした。イスルギが何らかの方法でこじ開けようとしているのだ。

 イスルギの焦りが伝わり、僕はこんな状況であるのに笑い出したくなった。

(絶対に渡すものか)

 髪の一筋を渾身の力で拳の中に握りこむ。

 化け物の顔が覆いかぶさってきた。それを振り払いたい衝動を懸命にこらえ、両手を腹に抱え込むように蹲った。

 ばくっと開けた大口には、鉤爪のように尖った乱杭歯がびっしりと並んでいた。

 恐怖のあまり――急速に意識が遠のいてゆく。意識が暗転する瞬間、イスルギの舌打ちが聞こえた気がした。

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