④
どれだけの段数を上っただろうか。
普段、運動とは無縁の生活を送っている僕の限界はすぐに訪れた。肺が熱く、横腹は鈍く痛み――やがて足が止まってしまった。
手摺にしがみつき、ぜいぜいと荒く息を吐く。太腿がはちきれそうだった。
そっと階下に目を馳せる。階段のずいぶん下のほうに、闇に浮き立つような白い塊が見えた。
首が折れたかのように垂れた
何がどう終わるのかなんてわからないし想像すらしたくないが、自分の中の本能が叩きつけるように警鐘を鳴らしていた。ぜったいに見てはならない。
化け物はそれほど速くはないが一定のスピードで階段を上っていた。距離は確実に詰まってゆく。ぼやぼやしていると追いつかれてしまうだろう。
追いつかれたら――どうなるのだ。
「……う……っ」
恐ろしさに涙が滲んだ。
泣いている場合じゃない。上らなければ。階段を――。
懐中電灯を前に差し向けようとした一瞬、光の軌跡が化け物を横切った。
その姿に僕は戦慄した。頭と四肢を除いた胴体全体には、黒い虫――
僕は渾身の速さで前を向いた。
意識的に視界に入れないようにしていたのに。思いのほか近づかれていて、見えてしまったのだ。
(……ちょっと待て。本当に、虫だった……?)
ぞわぞわとした悪寒が背筋を這い上ってくる。
――確認しては駄目だ。
後悔するとわかっていたのに、僕はゆっくりと振り返り、震える手で懐中電灯を向けた。
虫と思ったそれは、無数の大小の顔だった。それらがあうあうと口を開閉するたびに、落ち窪んだ眼窩や鼻孔、ぽっかりと開いた
行方不明の顔だ――瞬間的に思った。彼らはここにいたのだ。
白目を向いて口をだらしなく開けているものがほとんどだったが、中には苦しげに顔を歪めている顔もあった。
彼らに正気があるのだろうか。もしそうであったなら、それは死よりも恐ろしいことなのではないだろうか。
(……捕まったら、僕もこれの一部に……?)
気が触れてしまいそうな恐怖が込み上げた。冷たい汗がこめかみを伝ってゆく。
その間にも、化け物との距離は着実につめられていった。あと、ほんの十メートルほど先にまで迫っている。
逃げなければ。なのに足はがくがくと震えて動かなかった。恐怖のためか、疲労のせいか――。
その時だった。顔がいっせいに僕を見た。
気づかれた――すうっと血の気が引く。
「ああああああ!!」
顔がいっぺんに叫び出し、僕は息がとまるほどに驚いた。
「助けて!」
「嫌だ嫌だ苦しい」
「痛い痛い痛い痛い」「あああ」
その顔は怯えて歪み、目から血の涙が流れ出した。化け物の全身から血が流れているように見えた。
一気に戦慄した。助けを求める声を振り切るように踵を返し、一心不乱に階段を駆け上がる。
元の場所からどんどん離れてゆく。まずいと思った。だが、逃げる以外にどうすればいいのだ。
嘔吐感が込み上げ、呼吸の合間に何度も唾を飲み込む。息がうまく吸えず、ものすごく苦しかった。足が止まり、なんとか進みを繰り返しているうちに、化け物との距離は徐々に縮まってゆく。
早く早く。追いつかれてしまう――。ひたすら焦るいっぽうで、あまりの非現実感に頭がふわふわとして、全身が思うように動かない。まるで水の中を歩いているようだ。
諦めてしまえば楽になる。そんな思いが脳裏をよぎり、すぐに叩きつけるようにそれを否定した。――楽になどならない。待っているのは永劫の苦しみだ。
その時、足首を掴まれて引き倒された。
階段の角に全身を打ちつけ、激痛に頭の中が一瞬真っ白になる。
化け物の手が縋るように伸び、足や服をつかんでいった。
振り払おうともがき、気づいた。身体から生えている四肢は、四本全部が腕だったのだ。マニュキアの剥がれかけた華奢な腕、筋張った筋肉質の腕、骨と皮ばかりの老人の腕、ひときわ短い子供の腕――。不均衡に見えたのは、それぞれ違う人間のものだったからだ。
それらの腕をばらばらと
右手で化け物の頭部を押さえ、左手で男の腕をつかんでいる状態で均衡状態となった。少しでも力を緩めれば押し切られてしまう。
歯を食いしばって耐えていると、耳に無数の声がなだれ込んできた。
言葉にならぬ怨嗟。ぶつぶつと意味をなしていない細い呟き。唸り声、呻き声、すすり泣き――。
まるで耳に
耐えられない。ものすごく叫びたくなった。だがそれをした瞬間、きっと発狂してしまう。
必死でこらえながら、化け物に目を馳せた。ぎっちりと寄せ集まった顔の奥に、さらに顔がのぞいていた。隙間から血走った目を剥き、「うー! うー!」と唸りながらこっちに助けを求めている。
本当に何人もの人間が詰め込まれているのだと悟った。化け物の大きさは自分より一回り小さいくらいなのに。物理空間などこの狂った世界の中では意味がないのであろう。
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