懐中電灯で丸く照らし出された足元以外は、周囲は完全な闇だった。

 僕は一段目に足を踏み出した。そのまま、一、二、と心の中で数えながら階段を登ってゆく。スニーカーが埃だか砂だかを踏むじゃりじゃりとした音だけがやたら大きく響いて聞こえた。

(人間が忽然と消えるなんて……本当にあり得るのだろうか)

 そこでふと気付いた。

(もしかして、その噂や失踪事件自体、イスルギさんの作り話なんじゃないのか……?)

 彼は、僕の蒐集しゅうしゅうできればいいと言っていた。つまり、ただ僕を怖がらせたらいいのだ。そのために噂をでっち上げて、それらしい廃ビルで肝試しさせて――。

(そうだ。そうに違いない。だって人間が消えるなんて……。そんなこと、ぜったいに起こるわけがない)

 そう脳内で自分に言い聞かせつつも、ぞわぞわとした怖気おぞけは背筋を這うように込み上げてくる。

 なんかもう、一気に駆け上がってしまおうかとも思ったが、それも怖い気がした。

 靴先を明るく照らす懐中電灯の丸い光を見つめながら、慎重に足を進める。

 光の中に妙なものが入り込まないよう、見えてしまわないよう、足元の最小限しか照らせないのが情けなかった。イスルギの術中にはまってるようでものすごく癪だったが、怖いものは怖いのだ。

 などとごちゃごちゃ考えている間に、すでに足は十二段目を踏んでいた。

(終わった――)

 思わず、安堵の息が漏れる。

 終わってみれば呆気ないではないか。

 それもそうである。たった十二歩、階段を上るだけなのだから。

 すっかり気が緩んだ僕は、懐中電灯をわずかに上に傾けた。――そこで、一瞬呼吸が止まった。

 踊り場と思った次の段は、階段だったのだ。

(……十三段目?)

 ぐらり、と足元が揺らいだ気がした。

(――待て。この階段は、もともと十三段だったのかもしれないじゃないか)

 階段が十二段だというのだって、あのイスルギの口から聞いただけだ。

 落ち着け、と僕は息を飲む。

 ゆっくりと懐中電灯を上げ、先をライトで照らした。

 階段は――ずっと先まで続いていた。

(踊り場はどこに……)

 僕は呆然と立ちすくんだ。確かに、折り返し階段だったはずなのに。

(……失踪者は、もしかしてこの先を行ってしまった……?)

 思ったとたん、恐怖が一気に突き上げた。どっと冷や汗が噴き出す。

 ――まずい。戻らなければ。

 踵を返しかけた半身を、必死でこらえた。振り返ってはならない——イスルギの言葉を思い出したのだ。

(……振り返ったら、どうなるんだ?)

 これ以上の何かが起こるというのか。そんなことになったら発狂しかねない。

 恐ろしい予感に、震えが込み上げる。

 ――正面に顔を向けたまま、ゆっくり後退あとずさりして下りたらどうだろう。それはありなのか。

 僕はぐっと唇を噛んだ。

 いや――そうゆう問題じゃない。きっと、降りること自体がタブーなのだ。

「……イスルギさん」

 うように発した声は、ひどく掠れていたにもかかわらず異様に良く響いた。

 ビル内の狭い階段のはずなのに、まるで広々としたがらんどうの空間に反響したみたいだった。

 そしてイスルギの返事はない。

(……後ろは、どうなっている……?)

 足元の一点を凝視したまま、背中側に意識を凝らす。

 イスルギの気配は微塵も感じられなかった。それどころか寒々しさを感じる。

 僕は何度も生唾を飲み込み、そうっと視線を上げた。

 真っ直ぐ前にのびた階段は無限を思わせた。光の届かぬ先は闇に閉ざされている。

 からよけい離れてしまいそうで、とても前には進めなかった。

(……なら、後ろに戻るしかない)

 僕は歯を食いしばって震えをこらえながら、思い切って振り返った。

 背後は塗りつぶしたように真っ暗だった。

 取り返しがつかないことをしてしまった――正体不明の後悔が貫いた。それを振り切るように懐中電灯を階下に向け――。

 絶望した。

 終わりの見えないほどの段がずらりと続いていたのだ。前方と同じ、懐中電灯で遠くを照らしても先に光が届かないほどの、長い長い階段だった。

(……ほんの二、三メートルほどしか、上っていないはずなのに……)

 その時。かすかに何か聞こえた。

 ぺたぺたと、なんだか貼りつくような音だった。

 耳を澄まさねば聞こえないほどだったが、耳鳴りすら聞こえない無音の中でそれはいやに耳についた。

 階段のずいぶん下のほうから、しかもだんだん大きくはっきりと――近づいてきている。

(……足音?)

 何者かが裸足で階段を登ってくる、そんなイメージが脳裏に浮かんだ。

 少なくともこの足音がイスルギのものでないのは確かだ。彼は革靴だったのだから。

(じゃあ、一体何が……)

 が近づいてくる、そう直感が訴えていた。逃げろ逃げろと本能が急かす。

 だが逃げるとなれば――上にのぼるしかない。

 この場から離れるのは嫌だった。より取り返しのつかない事態になりかねない。だが、躊躇している間にも足音はどんどん近づいてくる。

 どうしようもなくて立ちすくんでいると――足音だけでなく、声らしきものも聞こえはじめた。

 複数の人の声だ。

 それは、もしや助けが来たのかと一瞬でも喜べるたぐいのものではなかった。

 低く唸るような声の集合。耳を覆いたくなるような禍々しい不協和音だった。

 ぞっとした。しかも声は複数人のものなのに、足音は一人分なのはどうゆうことなのだ。

 恐ろしいものが近づいてくる予感に、震えがとまらなかった。心臓が早鐘を打つ。呼吸が切迫する。――なのに足は張り付いたように動かない。

 やがて懐中電灯の光が届くか届かないかの奥の闇に、なにやら白っぽいものが見えた。

 最初は裸の人間と思った。それだけでも気が狂わんばかりなのに――近づくにつれ、それが人の形をしてはいたが決して人間ではないものだとわかった。禿頭とくとうを俯せ、奇妙に不均衡な四肢をてんでばらばらに動かしながら四つん這いで階段を這いあがってくる。関節もありえない方向に曲がっていた。

 あまりの非現実的な光景に、一瞬、頭の中が真っ白になった。

「う――うわあああ!!」

 僕は弾かれるように階段を駆け上がった。

(何だ、何だあれは――)

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