③
その時だった。外から大勢の足音が近づいてきて、半開きだった引き戸がぴしゃんと全開になった。
僕は驚いて、涙でぐしゃぐしゃになった顔で振り向いた。
戸口に、武藤の祖父が立っていた。その後ろに何人かの大人たちの姿も見えた。
(……助けが来た……?)
僕はその場にへたり込みそうになった。
武藤の祖父は肉人さんの残骸を見て、たちどころに顔色を変えた。
「まだ食うてないな?」
その目が殺気立っていて、僕は声も出せずにがくがくと頷いた。
武藤の祖父は躊躇なく
武藤は表情ひとつ変えなかった。機械のように淡々と肉人さんに手を伸ばそうとする。
すると、三人ばかりの大人たちがどかどかと入ってきて武藤を押さえつけた。そのまま社の外に引きずり出してゆく。
外には二人の男性が待機していた。
「背ぇ向かせれや!」
「見せんなや!」
大人たちは武藤を力づくで引き倒し、社に背を向けさせた。頭を地面に押さえつけ、それでも起き上がろうとする武藤の後ろ首を膝で踏みつける。
あまりのことに動けずにいる僕の手を、乾いた手がそっと握ってきた。武藤のお祖母さんだった。
武藤の祖父は念仏のようなもの唱えると、側にいたおじさんから一升瓶を受け取った。ぐっと
周囲に強い酒の匂いが漂った。
続いて、別のおじさんが麻袋を持って近づいてきた。激しく動く麻袋から取り出したものに、僕はぎょっとした。
他の男たちは、おもむろに作業着のズボンを下ろすと尿をかけ始めた。
村の男たちの奇行に、僕は身動ぎひとつできずにいた。むしろ——彼らの方が狂人に見える。
凍りついている僕に、おじさんの一人は言った。
「お
僕は怯えたようにふるふると首を振った。尿など、まったく出る気がしなかった。
武藤は押さえつけられながらも低く呻り、もがいていた。白目を剥き、口から泡のようなものをだらだらと垂れ流している。
「駄目だ、まだ食いたがっとる。正気に戻らん」
「……武藤さん、かっちゃんはもうだめだ。肉人さんにならんでも、もう、一生このまんまだ」
おじさんの一人が悄然と呟き、お祖母さんが泣き出した。
武藤の祖父も、ぐっと唇を引き結んでうつむく。
「肉人さんになる……?」
僕は呆然と呟いた。
「肉人さんの肉を食べると、食べた人間が次の肉人さんになってしまうんだ」
中でも一番若い、四十代くらいの眼鏡をかけた男の人が僕に言った。
「肉人さんはね、元は人間なんだよ。その肉を食べると不老不死になるというのは、新たな肉人さんになって永遠に生きるという意味だ」
(元は人間……?)
蹴散らされたお供えのポテトチップスの袋に目を馳せる。
「あの肉人さんは、祐一さんなんですか……?」
眼鏡の男性は驚いたように目を見開くと、「良く知っていたね」と言った。
「肉人さんは、自分をなんとか食べさせようとしてくる。なんたって、長い間肉人さんになってしまっているから、早く楽になりたいんだろうね。 肉人さんが殺されながら笑っているのは、呪いから逃れられるのが嬉しいからだそうだよ」
「武藤はまだ食べていません。なんとかならないんですか!?」
「肉人さんに一度目をつけられてしまったら逃れることはできないと言われている。僕たちも、なんとか克也くんを標的から外そうと
そんな、と呟いた僕の顔を、眼鏡のおじさんはじっと見下ろした。
「だが——ただ一つ、肉人さんにならずに済む方法がある」
僕は顔を上げた。
「それは、肉人さんを食べてしまう前に命を絶つことだ。もちろん本人は操られているから自害できない。となれば、誰かが手を下すことになる」
(武藤を殺す……?)
あまりのことに、全身から血の気が引いていった。
「実際、死によって肉人さんが途切れた年はこれまで何回かあるんだよ。記録も残ってる。一番最近は——といっても江戸時代の天保の頃だが、肉人さんに目をつけられた兄を、一緒に居た弟が殺したんだ。代わりが立たず、そこで村から肉人さんがいなくなったわけだがね。——そこで、飢饉が起こった」
「飢饉……?」
僕が呆然と聞き返すと、——そう、とおじさんは眼鏡のつるをくいっと上げた。
「ひどい飢饉でね。何年も続いた。肉人さんは恐ろしい化け物でもあるけど、同時に村にとっては鎮守の神様でもあったんだ。そこで村の長老たちは相談して、その弟に責任を取ってもらうことにした。つまり——彼に新しい肉人さんになってもらったんだよ」
「……どうやって」
「どうやっても何も、肉人さんの肉を食べさせたんだよ。年月を経て朽ちた肉をね」
戦慄した。腹の底から嘔吐感が込み上げ、僕はぐっと口を押える。
「それで相談なんだが——弟くんが兄の代わりになったように、君が克也くんの代わりになってはもらえないかな?」
僕の顔を覗き込むようにして、眼鏡のおじさんは言った。僕は言葉を失って、それを見返す。
「武藤さんはこの村にとって大切な人だ。僕自身もずいぶんとお世話になってる。その武藤さんのお孫さんが、あんなものになってしまうなんて不憫すぎてね」
頼むよ、と拝むように手を合わせた。
「お友達と、この村を助けると思ってさ」
――何を言ってるんだ。
ガチガチと奥歯が鳴った。胃の中からすっぱいものがせり上がってくる。
眼鏡の男はそんな僕を一瞥し、ふいに社内に目を馳せた。大きく開かれた引き戸。その奥のどこまでも暗い闇の中で、崩れた肉人さんが白く浮いて見えた。
「弟くんが口にしたものはだいぶ年月を経てすいぶん酷い状態だったらしいが――あれはまだ新鮮だから」
逃げなければ。なのに、恐怖に膝が笑って、自分の体じゃないようだった。
そうこうしているうちに、腕をつかまれる。
いつの間にか退路を塞がれている。
その弟は、こうやって村の連中に食わされたのだ。
その時――眼前に、影が落ちた。
「――いや、その兄ちゃんは助けてやってくんねえか。 孫の責任は俺がとる」
顔を上げると、武藤の祖父が僕を見下ろしていた。
「武藤さん……肉人さんになる気か?」
「余所もんにゃやらせらんねえすけ」
強くつかまれた腕が解放され、僕の両脇をかためていた男たちが立ち上がった。
かわりにお祖母さんが僕の傍らに座った。大丈夫だすけの、と頷く。
武藤の祖父が社に入っていった。肉人さんの前で片膝をつく。引き戸から夕日が差し込み、その光景は闇の中で
武藤の祖父は崩れかけた肉のかたまりを掴み取ると——意を決し、がぶりと食らいついた。
僕は堪らず嘔吐した。涙の滲む目に入ってきたのは、お祖父さんの左目がどろっと溶けるさまだった。右目、鼻、口と崩れてゆき——顔、そして体は緩慢におうとつを繰り返しながら次第になだらかに均一になってゆく。
「なんまんだぶなんまんだぶ」
涙を流しながら手を合わせるお祖母さんの念仏を聞きながら、僕はその変化を瞬きもせずに見入っていた。
「……じいちゃん?」
掠れた声に――僕は我に返った。
武藤が、地に這いつくばったまま顔を上げていた。鶏の血を頭からかぶり、かっと見開いた目は真っ赤だった。
「あああああ!! じいちゃん!! じいちゃん!!」
発狂したかのように叫ぶ武藤を男たちは取り囲んだ。
「おお、かっちゃん。正気
「じいちゃんが代わってくれたすけな」
「
場違いな慰めの声と共に、武藤は男たちに引きずられて行った。
じいちゃん、じいちゃん――武藤の狂ったような叫び声が遠のいてゆく中。僕は、神の代がわりを見た。
武藤のお祖父さんはすでにぬるぬるとした質感の白いかたまりになりつつあった。
この世のものと思えない――現実感のない光景だった。
「君も行こう。本当は見ちゃいけないものだから」
眼鏡のおじさんが、僕の肩をそっと叩いた。
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