②
*
――涙が止まらない。
はぁ、はぁ、と息を切らしながら、僕はビルやコンビニの立ち並ぶ道路をやっと進んでいた。
すれ違う人たちが僕と目を合わさないようにしているのがわかった。
(どうしてこんなことに……)
異変は、アパートを出発してすぐに身を襲った。
西に向かいたい――。尋常でないほどのこいねがう気持ちが溢れ、苦しいほどだった。だが目的地の公園は南の方角にあった。
少し気を緩めてしまえば右折しようとする脚に
セミロングの髪を栗色に染めた女性が、木陰のベンチに座っていた。
二十代半ばくらいだろうか。手持ち無沙汰そうにスマートフォンをいじっている。
きっと彼女だ。
早く。早くこの箱を渡さないと。
僕はよたよたと彼女のもとにたどり着くと、崩れ落ちるようにベンチの前で膝をついた。
セミロングの女性はぎょっとしたように目を見開いた。飛び
僕は必死で嗚咽を飲み込みながら、渾身の力でベンチに手をかけて身を起こした。
バックパックをベンチの座面にどさりと置く。震える指でやっと測定装置を外し、涙と汗でぐちゃぐちゃの顔で女性を見上げ、差し出した。
女性はなかば怯えたような顔で、測定装置をつまみあげるように受け取った。自分もあのアパートで、彼に向けて同じような顔をしていただろうと思った。
女性が去った後、僕はそのベンチに座ったまま動けずにいた。
頭がぼうっとする。泣きすぎて、瞼があつぼったかった。
イスルギには、箱を渡したら次に受け取るまで自由にしていいと言われていた。コンビニで時間潰しでもしていようかと思っていたのだが、とうてい何もする気にならなかった。魂が抜けるとはまさにこの状態だろう。
先ほどの、バックパックを下ろした瞬間の解放感が脳裏によみがえった。あの瞬間、西への希求がふっと立ち消えたのだ。
まるで解き放たれたようだった。
あのどうしようもない想いは何だったのだ。
しらず涙が頬を伝っていった。慌てて二の腕でぐいっと拭う。
自分の意思なんか消し飛んでしまうほどに強い望み。
(あんな感情は知らない。あんな強い想いは……)
さきほどまでの苦しいまでの想いがよみがえり、僕は両手で顔を覆った。
何なのだ。何なのだあれは。
あの箱の中身は何だ――。
*
箱を女性に渡してから約四十分後。
血走った目と視線が合った瞬間、僕は「うわ……」と思った――頭では。なのに身体は、まるで待ち焦がれていたかのようにベンチから立ち上がった。
そこで自分が、男に強い連帯感を抱いていることに気付いた。懐かしいような、妙な安堵感が込み上げて、また涙がじわりと滲んだ。
――何だこれ。
向こうもほっとしたような、泣き出しそうな顔をしている。同じ想いを抱いているという確信があった。
初対面の、ぶっちゃけ気持ち悪いとさえ思っていた男に会えて、どうしてこんなに感動しているのだ。
ぞっとした。まるで別の人格が自分の中にあるようだった。そいつが男をまるでかけがえのない仲間のように思っているのだ。あの時みたいに――。
(あの時……?)
自分のものでない記憶の蓋が開きそうになり、慌ててシャットアウトする。
この自分ではとても耐えられない、凄惨な記憶――。
言い知れぬ不安に駆られている一方で、僕の体は勝手に男を熱く見つめ返しながら頷いていた。バックパックをしかと受けとる。
自分で言うのもなんだが、その決死な感じがなんだかものすごく芝居じみていて、まるで夢の中で自分を眺めているようだった。
地図を見ながら公園を出て、次の目的地である一番地点に向かう。
方角は西だった。この脚が、あんなにも向かいたがった方角である。
なのに。今度は北に行きたがっていた。一瞬でも気を抜くと脚は北に向かって走り出すだろう。
(何でだよ!)
息を荒げながら、勝手にあふれる涙をぬぐう。
自分の体なのにまったく思い通りに動かなかった。不気味とか、怖いとか以上に腹が立った。なんて身勝手なのだ。
脚の意思は一回目よりも強く、やっと抵抗しながら必死に歩を進めた。箱自体もなんだか前回よりも重いような気がする。
自分の中に湧きあがる想いも、ずっと増幅していた。受け止めきれないほどに。容量が一人分のところを二人分の意思が入っているようだった。だからつらいのだ。しかも、それは僕なんかよりもずっとずっと大きい意思だ。
耐えきれず、歩道の真ん中でひざまずいた。もう押し潰されそうだった。
じゃりじゃりとしたコンクリートに手をついて息を切らしていると、何人もの人が異様なものを見るような目で通り過ぎていった。
周りの目など、もうどうでもよかった。自分の身体を押さえつけることに必死だったのである。
抵抗を諦めてしまったらどうなるのだろうか。とりあえず北に向かって一目散するだろう。その後は……?
「――あの、大丈夫ですか?」
ふいに声をかけられた。
ゆらりと頭を上げると、スーツ姿のサラリーマンと思しき男性が気づかわしげに屈みこんでいた。
「……あ、あぅ……」
はいと言ったつもりが変な呻き声になってしまった。
リーマンさんがぎょっとしたのがわかった。
違うんですと言ったつもりが「ちあうんれす」になってしまい、リーマンさんは顔を引きつらせて身を引いた。
まずい。このままでは救急車、もしくは警察を呼ばれてしまう。
その場を逃げ出そうと急いで立ち上がったとたん、脚が萎えて派手に転んだ。リーマンさんは「うわっ」と後退りする。
肩から肘を思い切り打ちつけてしまった。痺れる痛みに耐えている隙に、脚は勝手に立ち上がる。北に向かおうとする筋肉の意志を感じて、僕は足を拳で思いっきりぶっ叩いた。
(何だよっ、何なんだよぉっ)
あうあうとわめく僕に恐れをなしたのか、リーマンさんは逃げるように去っていった。
はあっ、はあっ——地面に突っ伏し、激しく息を切らす。自分でも狂人の所業だと思う。
顔に熱いものを感じ、触れると、涙が滂沱と流れていた。何とか我慢してたのに。
――帰りたい。帰りたい。
(どこにだよ!!)
方角だってめちゃくちゃじゃないか。
こんなに辛くて悲しくて。恋しくて。
僕は髪をつかむと、芋虫のようにうずくまった。
遠慮がちに、また無遠慮に投げられる視線が、この身を刺しては通り過ぎてゆく。
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