第32話 第三章 ー9

「伝説だ。今僕は、伝説を目の当たりにしている」


 マスターは言いながら、泣いていた。


「何言ってるのよ。まだまだこれから伝説になるのよ。彼らは」


 クリスチーナが口を挟む。

 マスターはクリスチーナの方へ顔を向けた。サングラスを外し、涙を拭いてから、


「そうだね」


 と震える声で言った。

 午後七時に始まったライブは、予定では九時半から十時頃には終わるはずであったが、深夜零時を過ぎても、終焉を迎える気配は全く見られなかった。

 嬉々として演奏を続けるメンバー。

 その爆音に負けない声量をコンスタントに放出していながら、全く衰えることを知らないジョニーのボーカル。

 対して観客の方は皆一様に恍惚の表情を浮かべ、時間を忘れているようだ。奇跡的に、誰一人として帰途に付いた者はいなかった。

 GHホールという限られた空間で、限られてた収容人数でライブを行ったことが、逆に功を奏したのだろう。今集まっているのは、おそらくコアなファンばかりなのだ。

 もう何度目のアンコールなのかも分からないが、『朝までロケンロール』が始まった。この曲もすでに前半に一度、アンコールで一度演奏されているが、お構い無しだ。


「このまま朝までイクかい!?」


 前奏の間に、ジョニーが観客に向かって叫んだ。

 客席からは当然のように満場一致のイエスの回答。

ジョニーはにやりと笑みを浮かべ「オッケー」と言った。

『朝までロケンロール』は曲の最後に、EDAAのコード進行で何度もサビを繰り返してフェイドアウトしていく曲だ。

 この日、フェイドアウトしていくはずの『朝までロケンロール』は、途絶えることなく延々と演奏されていた。


 EDAA、EDAA、……と繰り返されるロックに合わせ、ジョニーがアドリブで歌詞をつけ、サムはソロのアレンジを加え、ティムがタムをまわす。

ジョニーが観客の方にマイクを向けると、先を争うように食いついてくるファン達。それぞれに別々の音程で、雄たけびを上げている。

 呆気にとられるクリスチーナの隣ではマスターが、伝説だ、と呟きながら涙を流している。

 


 朝七時、ライブが始まってからちょうど十二時間が経過していた。

 ティムのドラムの音が、一瞬途切れた。

 見ると、スティックが折れてしまったようだ。悪いことに、もはや代えのスティックはすべて使い尽くしているようで、右手一本で叩いている。

 続いて、サムのギターの弦が切れ、会場内に不協和音が響く。

 瞬時にジョニーの方へ駆け寄ったアルが、何事か耳打ちしている。

 その言葉に小さく頷いたジョニーが、いまだ興奮の収まらない観客の方へと視線をめぐらせ、


「サイコーだったぜ。――ありがとう」


 と深々と頭を下げている。

 ベース音が鳴り止み、ギターの音も止まる。

 しばらくしてから、はっとしたように辺りを見回したティムが手を止めた。

 その刹那、うっすら耳に残る残響と共に、痛いほどの静寂が会場を包み込んでいた。

 バンドメンバーはそれぞれ楽器を手放し、ステージ前方に一列に並ぶ。

 肩を組んだ四人が揃って深く礼をすると、会場からは最初はぱらぱらとではあったが、すぐに思い出したように大きな拍手が鳴り始めた。

 マスターも手を叩いていた。

 アルバイトの青年も隣に来て、ガラス越しにバンドメンバーを見つめている。

 クリスチーナもステージへと目を向けた。

 なぜだか分からなかったが、涙が止まらなかった。

 


 完全に客が引けた後、楽屋に顔を出したクリスチーナは、バンドメンバーに一言、ご苦労さん、とだけ伝えた。一様にただ虚空を見つめる四人に、これ以上何も言えることが無かったのだ。

 夜のうちに予定されていた打ち上げは当然キャンセルとなっており、とりあえず全員そのまま帰宅させて欲しい、とマスターに告げて、GHホールを後にした。

 徹夜明けのけだるい体を引きずって、『猫の額』本部へと足を向けていた。一体何のために無理をしているのか、クリスチーナには分からなくなっていた。

 体がだるいのは年のせいだ、と誤魔化していたが、そうではないことは分かりきっていた。一昔前までなら、任務のために、と考えると自然と体が動いたものだが、今は違っていた。モチベーションが極めて曖昧なのだ。


「状況が変わった。当然『株式会社IWASHI』の監視も続ける必要はあるが、あのワンマン社長が死んだとなってはそれだけでは駄目だ。これからは多角化に乗り出す」


 眠い目をこすりながら、ぼんやりと組織幹部の言葉に耳を傾ける。

 男は続けて、言った。


「そこで、クリスチーナ。君に一つ任務を与える。『笑う像』という言葉を、どこかで聞いたことがあるかな? この仏像からは伝説の磨き粉が抽出できるという話だ。どんな汚れでもたちどころに落としてしまうという言い伝えがあるほどの磨き粉だ。そこで、我が『猫の額』はいち早く『笑う像』を手に入れ、その成分分析を行い、伝説の磨き粉の大量生産に乗り出す」


 笑う像? 

 伝説の磨き粉?

 大量生産?

 この人は一体何を言っているのだろう、というのが彼女の正直な感想であった。


「今のところ、考えている用途としては、車体磨き用の磨き粉として――」


 話し続けようとする男を、クリスチーナが遮った。

 男は首を傾げ、クリスチーナを凝視している。


「あの、非常に申し訳ないんですが、私『笑う像』とやらを探すつもりはありませんので」


 この言葉に、男は口を少し開いたままぼんやりとクリスチーナを見つめていたが、言葉の意味を理解したのか、眉間にしわを寄せ、鬼のような形相を見せた。


「君は……、自分が何を言っているのか、分かっているのかね?」


「ええ、もちろん」


「この組織において、指令は絶対だ。しかし、今君はその指令を断った。それがどういう――」


 最後まで言い終わることなく、男は背後の壁まで吹き飛んでいた。

 思わず殴り飛ばしていた、というのが、クリスチーナの感覚であった。

 何がどうだから殴った、という理性的な反応ではない。

 壁際でずるずると崩れ落ちていく男をじっと見つめながら、自分の行動の意味を考えていたが、結局何も見つからなかった。

 周囲で談笑していた数人が、呆気に取られて状況を見守っている。おそらく、誰も状況を把握できないのだろう。

 クリスチーナが背を向け去っていく時にも、誰も何も言わなかった。

 彼女はオフィスを出るとそのまま帰途についた。

 ただ、ひたすら眠りたかった。


 夕方頃目覚めたクリスチーナがテレビのスイッチを入れると、「あの『株式会社IWASHI』の社長が殺される!」というロゴが画面の下側に躍っていた。特番を組んでいるようだ。

 もう公開したのか、という漠然とした感覚で眺めていたクリスチーナであったが、容疑者の名前を見た瞬間、心臓が跳ね上がり一気に目が覚めた。

 容疑者は人気ロックバンドでベースをつとめるアル・P・小杉、そして現在も逃走中である、と淡々と語るニュースキャスター。

 瞬時に出かける準備をしようとしたクリスチーナであったが、すでに組織の人間ですらない自分に気づき、手を止めた。

 何とかしなければ、という意志とは裏腹に、じわじわと無力感が押し寄せてくる。

 クリスチーナはその場に座り込んだ。

 じっと、ブラウン管を見つめる。

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