第9話 第二章 ー1

 ウランバートルの空港に到着した当日こそ、セレベ川の畔に位置するチンギスハーンホテルに宿泊したティム、サム、アル、ジョニーの4人であったが、その後は少し北に抜けたゲル部落での生活となった。経費削減のためである。今回クリスチーナが同行しなかったのもそれが理由だということである。


 そしてゲル部落での生活十日目の朝を迎えた。いつもの時間に目覚めたティムは隣のアルを伺うが、その姿は無かった。先に起床して外出しているのだろう、と結論したティムの耳に、サムとジョニーの声が聞こえた。


 ティムはゲルから顔を出す。二人は地元民と深刻な表情で話している。「アルがどこに消えたのか」という内容であった。


 ティムはその光景をしばらく傍観していたが、声をかけることなくゲルに引き上げた。

 数日前から耐え難い足の痒みに襲われていた彼は、それどころではなかったのである。

 頭の片隅に浮かんでくる「水虫」というフレーズを必死に否定して、平静を装っていたが、その実、思いっきりかきむしりたい衝動に駆られていた。

 ティムは何度も赤い髪をかきあげ、気を逸らそうとした。

「GHホールの手数王」改め、今は「日本の手数王」たる自分が水虫などあってはならないことだ。ティムは環境の変化によるものだろう、と考えた。日本にいた頃には日に2回は風呂に入っていたティムであったが、ここではそうもいかない。さらに、食べるものと言えばくる日もくる日もチーズ、バター、肉、臓物。それでは足も痒くなるというものだ。


 ティムはさらに痒みを増していく自らの皮膚を平手で叩いた。心地よい痛みが広がり、その後、叩いた部分にみみず腫れの様な赤みが差してくる。何度も打ってみる。ティムはぶるぶるっと体を震わせ、ため息を漏らす。あぐらをかき、自分の足の裏を覗き込む。ちょうど両足の土踏まずの部分に、白いブツブツができていた。ティムは見なかったことにして急いで靴下を履いた。


『痛み』はいい。これは体からの正当な反応だ。その感覚により、人は体からのSOSを認識することが出来るのだ。ところが『痒み』はどうだ。痒みがあるとき、人はどうするか。当然、掻く。掻きむしる。するとどうだ。むしろ事態は悪化するではないか。一体どうなっているのだ。こんな理不尽なことは無い。『痒み』など死ねばいいのに。


 ティムは一人呟きながら靴を履き、ゲルを出る。

 一面に広がる草原。点在するゲルの前では現地人たちが羊や馬を追っている。

遥かかなたにウランバートルの市街地が見えた。

 ティムにとっては不本意なのだが、日銭を稼ぐために工場へバイトに行かなければならない。今日がその初日なのである。


「少し北に抜ければいい」


 ティムは声の方向に振り向く。

 続けて、日本人墓地、という言葉がティムの耳に届いた。

 サムがその場所への行き方を尋ねている。どうやらアルの話は一段落ついたようだ。


「アルは? 今日工場に行くんだろ?」


 ティムがジョニーに声をかける。

 ジョニーは首をかしげる。

 サムは地元民に礼を言うと、こちらへ歩いてきた。


「仕方が無い、三人で行こう」


「ちぇっ、なんて奴だ。今度のライブは大丈夫なんだろうな」


「さすがにそれは来るでしょう」


 サムは苦笑している。

 アルがバンドに加入してから半年間経っていたが、その間も彼が練習をドタキャンすることが数度あった。不快感を表すティムに対し、サムは曖昧に言葉を濁し続けている。

 ティムはジョニーを伺う。予想通り、アルがいないことなど気にも留めていない様子だ。


「いい天気だ。俺もデールでも着てみようかな」


「デール?」


「そう、モンゴルの民族衣装さ」


 心底どうでもいい。

 ティムはまだ何か言おうとしているジョニーを無視して足を速めた。


「マニ車もあれば最高だ。神に近づくことが出来るかもしれないよ」


 サムが呟くが、ティムは振り向かずに先を急ぐ。また足が痒くなってきたのである。

 五階建ての集合住宅が林立する市街地を歩いていると、視線の先にモンゴル国旗がはためいている。その隣には一回り小さい笑顔の鰯の旗が並ぶ。『株式会社IWASHI』が出資した工場だ。アイラグ(馬乳酒)からアルコールを抽出し、アルヒと呼ばれる酒を製造していると聞く。


 入り口での手続きで一人足りなくなったことを伝えると、既に連絡が来ている、とのことであった。つまりアルの逃避行は予定通りということだ。


「事故に巻き込まれた訳じゃなかったんだから、良しとしようよ」


 いつものように事なかれ主義を貫くサム。

 ティムは断固首肯せず、


「帰ってきたら絶対俺の分も働いてもらう。ゲル内の掃除、洗濯、食事の準備、やることは一杯あるんだからな。それぐらいやってもらわないと割りに合わないぜ」


「あ、それなら俺の分もよろしく」とジョニー。


 持ち場へと向かう途中、サムが呟く。


「やっぱり、俺も頼もうかな……」


「……最初からそう言えばいいんだ……あ、ここだ」


 ティムは立ち止まり目の前の扉をくぐる。強烈な臭いが鼻の奥を貫く。頭の芯が痺れるような、濃縮された生物臭だ。

 白衣を身にまとい忙しく立ち振る舞う人たちの中へ、ジョニーは躊躇せずに紛れ込んでいく。サムも後に続く。ティムが静観していると、ジョニーは目の前の男に声をかけた。男はジョニーの姿を認めると手を挙げ、笑顔を見せた。サムも後ろから頭を下げている。どうやらゲル部落の知り合いのようであった。極力現地人との接触を避けていたティムは、いまだに知り合いと呼べる人間はいない。

 ジョニーが談笑している。

 その後ろからヘコヘコと着いていくサム。ティムはその姿を見てオンブバッタを連想していた。

 と、目の前を台車が横切った。

 ミルク色をした液体の入った巨大なタンクが載っている。

 ティムが呆然と眺めていると、台車が停止した。


「どうかしましたか? 何か探していますか?」


 台車を押していたのは、少女だった。

 その少女がティムを見上げ、首をかしげている。

 ティムの心臓が跳ね上がる。思考回路が麻痺し、手足が痺れたように動かない。ただその大きな瞳に射すくめられ、身動きが取れない。


「誰か呼びましょうか?」


 少女はあたりを見回し、もう一度ティムを見上げる。

 視線が絡んだ瞬間、ティムの脳に再度電流が走る。


「ああ、いや」ティムは必死に言葉を捜す。


「大丈夫、もう足は痒くないから、心配しなくてもいいよ」


「足?」


 少女が怪訝そうにティムを見つめている。

 足?

 ティムは自分の発言を反芻する。

 大丈夫、足は痒くないから。

 なんだそれ。

 ティムが駄馬のように愚鈍な自己問答を繰り返していると、奥の方から少女を呼ぶ声が聞こえた。目の前の少女は慌てて返事をしてティムに背を向ける。

 台車に手をかけ、一瞬立ち止まり「変な人」と言って笑顔を見せた。


「レイチェル、早く」


 さらに呼び出しがかかり、少女レイチェルは去っていった。

 ティムの脳裏に、レイチェルの笑顔がこびりついていた。その日は仕事中もずっと上の空で、二度、アイラグのタンクをひっくり返した。指導員には叱責を受けたが、視線の先のレイチェルは楽しそうに笑っていたので嬉しくなったティムは笑った。

 その日の夜、仕事後、ジョニーとサムはそのまま職場の仲間と飲みに行ったようだったが、ティムは一人暗闇で身を潜めていた。レイチェルのあとをつけるのである。

 ひときわ遅くに仕事を終えたレイチェルは、夜道をとぼとぼと歩いていた。方角はティムが現在住んでいるゲル部落と同じだった。

 ひょっとしたらゲル部落に住んでいるのか、と頭に浮かんだちょうどそのとき、レイチェルが脇道にそれた。集合住宅を抜け、廃墟のような建築物がぽつぽつと並ぶ路地が続く。コンクリートのアーケイドを抜けると、荒れた草原が一面に広がる。

 

 土気色の岩肌がむき出しで、所々に生えている植物も高さが均一ではない。さしずめ捨てられた土地、といった風情を醸し出している。

 ティムはアーケイドの影からレイチェルの後姿を凝視していた。それ以上先に踏み込むと隠れる場所がないのだ。

 レイチェルの姿が闇夜に消えていく。ただ、ぼんやりとではあるが、ゲルのような物体を一つ確認できた。それ以外、見渡す限りで人が住めるような施設は無い。おそらくレイチェルはそのゲルに向かったのだろう。

 ティムが思考を巡らせながら暗闇を見つめていると、そのゲルから明かりが漏れ出てきた。間違いない、とティムは頷き、アーケイドをくぐる。腰をかがめながら、早足でゲルに向かう。

 あ、っと思ったときには、ティムは頭から地面に突っ込んでいた。一瞬何が起こったのか分からなかったが、すぐに顔を上げる。

 目の前には毛むくじゃらの物体。ティムは喉まで出かかった悲鳴を必死で飲み込むと、座り込んだまま後ずさる。

 その黒と茶色の毛がまだらに生え揃った犬は、うなり声を上げながら鋭い目でティムを凝視している。ティムは完全に固まった。動けばやられる、と体の芯で感じ取ったのである。

 どどっ、どどっ、という規則的な揺れが尻から伝わってくる。

 今度は何だ?

 ティムは一瞬目の前の犬から視線をそらした。黒光りする物体がティムの視界を覆い、そして頭上を飛び越えていった。反射的にそちらに目を向けるティム。馬か、と考える間もなく、足に激痛を覚えたティムは思わず声を上げた。

 犬がふくらはぎに噛み付いている。必死に振り払おうともがけばもがくほど、その牙はティムの右足に深く根を下ろしていく。

 『痛み』がまだいい、と思った自分は浅はかだった、と脳裏に一瞬だけ浮かぶが、それにしても痛い。ティムは我知らず雄たけびを上げていた。

 ゲルの方角から物音が聞こえた。ティムは必死に振り返る。その視界を、毛むくじゃらの物体が覆う。ティムは見上げる。カシミアヤギ、と思った瞬間に、背後からどどっ、どどっ、という振動が伝わってくる。振り返ったティムの目の前に、蹄が迫っていた。それがその夜の最後の記憶であった。

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