第23話 第二章 ー15

 JASTの2枚目のアルバム『それならウランバートルへ』は予想を遥かに越えるセールスを記録していた。ウランバートル行きが決定してから作成したCDだ。

 クリスチーナは連日その対応に追われていた。

 本来ならこんなことをしている場合ではなかった。組織の方の仕事もこなさなければならない。それもJASTのメンバーが帰国する前に終わらせなければならない重要な案件をかかえているのである。


 クリスチーナは自分の服装を姿見で確認し、そのまま化粧に入る。

 夕方には某イベント会社との接見の予定が入っているのである。先日突然電話がかかってきたが、用件等詳しいことは直接会って話したい、とのことであった。

 これまで、ライブの依頼などはバンドが海外に出ていることを理由に辞退することにしていたが、JASTのマネージャである以上用も聞かずに断ることは出来ない。とりあえず話を、ということであれば承諾せざるを得なかった。それに、バンドの仕事も『猫の額』の任務の一部だという言い訳もできた。組織からの催促には、そう言ってのらりくらりと切り抜けてきたのである。


 何故だか分からないが、最近組織の仕事を始めようとすると、憂鬱さからその重い腰を上げられなくなることが多々あった。以前では考えられないことであり、何かが自分の中で変わってきていることは気づいていた。その変化が一過性のものであるのか、そうではないのかも分からないが、任務を先延ばしにしようという欲求が抑えきれなくなってきていた。


 反面、マネージャとしての仕事には心躍るものがあった。JASTが雑誌で取り上げられると、子供のように純粋な喜びがこみ上げてくる。しかし、組織の女としての冷静な判断が、その感情を踏みにじる。彼女の心のどこかに「マネージャ業など、所詮かりそめの姿だ、何をそんなに喜ぶことがある?」と嘲笑している自分がいた。


 待ち合わせ場所は地下鉄心斎橋駅を降りて御堂筋から少し西へ歩いた場所に位置するある喫茶店であった。午後4時から喫茶店で、ということは長くても2時間程度で終わるということであろう。クリスチーナはそう踏んでいた。


 実際JASTの人気はうなぎ上りという言葉では表せないほどの急上昇を示していた。今後どうなっていくのか、もはや誰にも予想することは出来ない。そのことをまだバンドには伝えていない。連絡する前に組織の仕事を終わらせなければならないのである。


 喫茶店に入り指定された席に向かっていくと、

「こんにちは」と、相手側が先に頭を下げてきた。

 業界人的な人間を予想していたクリスチーナであったが、相手は予想外に企業の営業マンのような雰囲気だ。清潔感のある髪とぴりっとしたスーツ姿がそう思わせた。


「こんにちは……えーと」


 クリスチーナも笑みを返し、社名を思い出そうとしていると、目の前に名刺が差し出された。慣れた仕草だった。


「さっそくですが、本題に入りたいと思います」


 クリスチーナが席につき、コーヒーを注文すると、男はこう切り出した。


「来年夏のある野外ロックフェスタに、JASTを招待したいのです。もちろん、今のJASTの人気に見合う報酬は用意します。それとライブのラスト……トリにするというわけにはいきませんでしたが、その前、トリ2の席を用意しました」


 やはり、という提案だった。会って話すまでもないようなありきたりな内容である。電話口だと断られるという噂が業界内に回っているのだろうか?

 クリスチーナが無言で先を促すと、男はにやりと不敵に笑みを浮かべ、続けた。


「そのロックフェスタというのは、あの、ロック・イン・瀬戸内海です」


 ロック・イン・瀬戸内海。

 その言葉を聞いた瞬間は何かの間違いだろうと判断したが、


「トリは『Boy』に出演してもらうことが決まっています」


 という男の言葉で、勘違いではないことをようやく悟った。


 ロック・イン・瀬戸内海は来年第十回を迎える日本最大のロックフェスタである。そしてそのトリを勤めるBoyは言わずと知れた、日本のトップに君臨しつづけているロックバンドである。

 それほどまでに高い評価を受けているとは、全く認識していなかった。

 クリスチーナはなるべく表情に出さないようにしていたが、その手は震えていた。おそらく自然には振舞えていないだろう。


「その驚く顔が見たかったので、今回は敢えて直接お会いしようと、そう思ったんですよ」


 目の前の男は幾分照れたように笑った。

 断るという選択肢は、このときのクリスチーナの中には無かった。

 ただ自分の中で確固としてそびえていた何かが音を立てて崩れ、その代わりに新しい芽が心の中心で顔を出しつつあった。

 ロック・イン・瀬戸内海の出演依頼にはとりあえずポジティブな回答をしておいて、喫茶店を後にしたクリスチーナは、その足で組織の事務所に向かった。

 数ヶ月間顔を出していなかったクリスチーナに対し、組織の人間は


「今すぐに任務にかかれ」


 という厳しい言葉を浴びせた。

 早々にその場を去り、その足で『株式会社IWASHI』の本社がある淡路島へと向かう。JR明石駅で下車し、『魚のたな』の隣を抜け、たこフェリー乗り場へと到着。ちょうどその日の最終便が出るところであった。


 フェリーに揺られながら、任務の内容をもう一度頭の中で整理してみた。

 まず、今回の目的は『株式会社IWASHI』の基幹産業である食品事業において、その目覚しい成長の要となった鰯乱獲の技術を盗んでくるということだ。そのために、本社ビルに併設されている鰯研究所にもぐりこむ。


 クリスチーナの組織は通称では『猫の額』と呼ばれているが、本来は『乱獲された鰯を食卓から追放する会(OSSOT)』という名で呼ばれるべき組織である、とクリスチーナは考えていた。

 もともと、『株式会社IWASHI』の乱獲技術そのものが、食品としての鰯の安全性を脅かしているのではないか、という純粋な疑問から始まった組織なのである。その証拠に、『株式会社IWASHI』はその技術を知的財産権として公開することもせず、ただひたすら企業秘密として隠しつづけているではないか、というのが組織の言い分であった。

 当初は数人の主婦が集まって寄り合いのような形で始まったという話だ。それが約二十年前、クリスチーナがちょうど物心ついた頃である。それから十年以上、彼女等は細々と活動を続けていた。ただその細々と続けていたことがかえって良かった。つまり、『OSSOT』は、『株式会社IWASHI』が気にとめない程度の規模だったのである。


 クリスチーナは甲板で夜の瀬戸内海を眺めていた。

 今見ている、まさにこの海で、全てが始まったのだ。

 現在では既に食品業界にとどまらず、出版業界、音楽業界にまで手を出し始めた『株式会社IWASHI』。そろそろ改名されるのではないかという憶測が飛び交っているが、今のところ具体的な案は出てきていないようである。


 そして、ここからがクリスチーナが首をかしげざるを得ない点であるが、『株式会社IWASHI』の巨大化に伴い、『OSSOT』も組織を肥大化させたのだ。そして、通称で『猫の額』と呼ばれだしたここ数年の規模拡大の速度は、皮肉にも『株式会社IWASHI』をしのぐ勢いだ。

 組織内部での権力抗争の話もちらほらと耳にする。いつの間にか、組織のための組織になってしまっているのではないか。クリスチーナにはそう感じられる時が多くなっていた。


 淡路島の玄関、岩屋で船を下り、もう一度地図を確認する。

 そこから徒歩で1時間ほど四国寄りの道を進み、さらに山道に入り2時間ほど登ったところに、『株式会社IWASHI』の研究所があった。一度下見を済ませているため、道に迷う心配はない。そして、念を入れて今回はバンドが海外に行っているときを狙った。


 クリスチーナにはもう一つ、平行して続けている任務があった。それは、『株式会社IWASHI』の跡取り息子、ジョニー・Dの監視であった。

 ジョニーには近づき過ぎず、離れ過ぎず、その周りに常に目を光らせなければならない。そのためのうってつけの身分が、サム・Rの恋人という設定だったのである。


 怪しまれない程度の早足で山道を登りながら、クリスチーナは必死で思考を集中させようとしていた。自分の任務に何の疑問も感じていなかった以前の彼女なら、そのような心配をしなくても良かったが、そうもいかなくなってきていた。どれほど振り払っても、雑念が頭の中いっぱいに渦巻いていた。


 そして、研究所にたどり着き、窓からこっそりと中の様子をうかがった瞬間、クリスチーナの心臓が跳ね上がる。頭が真っ白になっていた。

 そこには、ジョニーがいたのである。

 思わず身を伏せたクリスチーナ。

 ウランバートルにいるはずのジョニーが、なぜ? という疑問が脳裏を駆け巡る。

 もう一度ゆっくりと中を覗き込んだ。

 研究所の室内には、いくつものブロックに区分けされた生簀が整然と並んでいる。その他には何もない、殺風景な部屋だ。ジョニーが、リモコンの操作をしている。空調だろうか? と何となく考えていると、窓から伝わってきた規則的な振動に、クリスチーナの心臓が跳ねる。


 音楽――つまり、クリスチーナの求める鰯乱獲の根幹となる技術が今まさに目の前に展開されようとしているのかもしれない。

 クリスチーナは多少の危険は覚悟で窓に耳を当ててみた。

 4ビートのリズムにあわせて、ギターの音が聞こえる。フォークギターの音色だ。あまり音質は良くない。

 しかし、どこかで聞いたことがある。

 クリスチーナは首を捻る。一体どこで耳にした音楽なのか、記憶をたどっていく。過去候補に上がった曲は全て違う。日本の音楽というより、どこか海外のブルース調だ。さらに、音質の悪さも気になるところであった。

 と、突然曲が途切れた。あれ? と思っているうちに、再度、曲が流れ始めた。

 その瞬間、彼女には全ての答えが分かってしまったのであった。


「そうか……!?……しまっ!」


 人の気配に身を翻すが、一寸遅かった。腕が抗いがたい力で曲げられる。そのまま体が拘束された。

 必死で逃れようと手足をばたつかせたが、目の前に数人の警備員が迫ってくるのを確認したクリスチーナは、ついに断念した。何故だか分からないが、自嘲の笑みが漏れた。


「誰だ? 何の目的だ?」


 警備員は強い口調で迫ってくる。

 クリスチーナは顔から能面のように表情を消し去った。何も言うまい、そう決めたのである。


「ああ、ごめんごめん」


 というジョニーの声に、動悸が早まる。

 いつも通りの屈託のない口調だ。クリスチーナは顔を伏せた。ジョニーには、このことを知られたくなかった。無駄だということは分かっていたが、本能が、クリスチーナに顔を隠させたのであった。


「忘れてたよ、彼女は俺が呼んだんだ……だよね、クリスチーナ?」


 クリスチーナは我知らず顔を上げた。

 ジョニーがほほ笑みながらこちらを見つめている。


「あ、あの……」


 言葉にならない。

 警備員がジョニーに反論しているが、ジョニーは頑として聞き入れなかった。

 しばらくは口論が続いていたようであったが、ジョニーのあまりの強い態度に、警備員達は諦めたのか引き下がっていった。

 クリスチーナは座り込んだまま、身動きがとれなかった。先程聞いた、研究所で流れていた旋律が、耳の奥でなっている。

 それは高校時代、ジョニーに散々聞かされた、彼の祖父のオリジナル曲だ。組織が躍起になって探しても、手に入るはずはない。どこにも市販されていない音源なのだ。


「本当は、馬で駆けつけるはずだったんだけど、なかなかうまくいかなくてさ」


「馬で……モンゴルから?」


 やっとのことでそれだけの言葉を搾り出した。


「そう、……で、この有様さ」


 言うと、袖をまくりあげ、肘をさするジョニー。そこには大きな擦り傷が見られた。

 しばらくはそのまま患部を眺めていたジョニーであったが、

「さて」と真顔に戻り、クリスチーナに背を向けた。

 夏にさしかかろうとしているとはいえ、夜気には若干肌寒さが残っていた。スズムシの鳴き声が、いやに耳につく。


「知っていたよ。君に会ったときからね」


 ぽつり、とジョニーが呟く。

 クリスチーナがそのまま見つめつづけていると、ジョニーはこらえきれない、といったように吹き出した。

 ひとしきり笑い終わった後、


「ごめん、それは嘘だ」


 と言って、何がおかしいのか、そのまま笑いつづけていたのであった。

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