第7話 第一章 ー7

 受話器を置いた後、サムは鬱屈した気分を抱えながら布団にもぐりこんだ。

 どこがどう、という明確なことは何も言えないが、電話越しのクリスチーナの応答は明らかに不自然であった。何かを気にしているような気配があり、また、早く電話を切ってしまおうという意思すら感じられた。それは微妙な違和感であったが、サムには確かに感じられたのであった。


 と、電話が鳴った。サムは跳ね起きた。クリスチーナからの電話だ、という予感とも希望ともつかぬ思いを抱きながら、受話器を上げる。相手は、サムの母であった。

 サムは落胆を悟られないように気遣いながら、いつも通りの対応をする。ひとしきり近況を伝え合い、たまには帰ってきたら、という母の提案に曖昧に答えたサムは、受話器を置き、再度寝床についた。


 実家に帰る、ということはサムにとっては苦痛以外の何物でもなかった。

 国立大学の工学部を卒業したサムは周囲の期待を裏切り、進学することもなく、また就職先を探すこともしなかった。

 同じように卒業した人間のほとんどは、空前の好景気を味方にそれほどの苦もなく就職を決め、それぞれ社会に出て行った。それは世間では疑問を持つことすら許されないほど当然のことであったが、サムにとっては信じられないほど奇異なものだった。

 音楽で食っていける、と楽観視していたわけではない。ただ、技術者として企業の一員となり働くということが、彼にとっては生理的に受けつけられなかったのである。


 父親が公務員であるサムは、大学を卒業するまでは経済的な心配をする必要がなかった。それほどの大金持ちではないが、サム一人を大学へやる程度の収入はあったのである。

 卒業後、当然ではあるが、仕送りが途絶えた。ティムの加入によりバンドとしての知名度が上がるに従い、徐々にではあるがGHホール以外からライブのオファーがかかることも増えていた。その分、若干収入は増えたが、それだけで生活していけるほどではない。必然的に、スタジオ練習とライブ以外の日にはアルバイトで日銭を稼がなければならない。   


 サムは主に配送物の仕分けの仕事をしていた。その淡々とした仕事は楽ではあるが非常に退屈で、そのせいか一時間の作業が一日にも感じられた。反面、気が付くと一ヶ月が知らぬ間に過ぎてしまったような錯覚に陥ることもあった。


 そんな日々を重ね、一年が過ぎていた。


 相変わらず、スタジオ練習、ライブ、バイト、の繰り返しの生活が続いていた。

仕分けの仕事を終え帰宅したサムは、部屋で一人、大きく息をついた。6畳一間のアパートだ。畳の上に座り込み、ぼんやりとその薄汚れた壁を見つめる。すると、自分は負けた人間だ、ということをまざまざと思い知らされてくる。


 ジョニー、サム、ティムの三人編成の『クリスチヌス』は、確かにある程度の人気はあったが、その活動は停滞気味であることは否めない。

 いっそのこと辞めてしまおうか、と考えていた矢先に、ベースとしてアルが加入することになった、というジョニーからの電話を受けた。

 ジョニーは最後に「ミーティングをするから、今晩6時に居酒屋『弦』集合」とだけ言うと、一方的に切った。

 サムは受話器を置き一息つくと、迷わずに脇に置いていたアドレス帳を開く。バイト先に仕事のキャンセルを伝えなければならない。

 サム自身、喜びとも不安ともつかないこの時の自分の心情を理解できなかった。ただ、何かが変わる、ということだけは確信していた。

『弦』に着いた時には、既にアルとティムが店の前で待機していた。アルによれば、クリスチーナは私用で不参加、ジョニーはいつも通り遅れているのだろう、ということであった。三人は数分だけその場で待っていたが、中で待とう、ということになり、先に『弦』に入った。

 平日の午後6時ということもあってか店内は閑散としている。奥の座敷に向かっていると、「おい」という聞き覚えのある声が背後から聞こえた。サムは振り向く。ジョニーだった。先に来ていたのである。


「めずらしいじゃない?」と、ティム。


「何言ってるんだ、俺はいつも同じように来ているんだぜ?」


 同じように、の意味が、サムには分からなかったが、ジョニーには何らかの基準があるのだろう。それは少なくとも時間以外の何かである。


 ジョニー、サム、ティム、アルは案内された座敷に座り込み、ひとしきり注文を終えると、一瞬の静寂を迎えた。脇を過ぎる客が、ちらとこちらを気にしながら過ぎていく。ティムの赤い髪が珍しいのだろう。


「それじゃ、今日は、新しい門出を祝って……」


 飲み物が運ばれてきたのを見計らってティムが口火を切るが、アルが制して言った。


「すみません。そういえばまだサムにはちゃんとした伺いを立てていませんでした。以前にジョニーからは誘われていたのですが」


 アルがサムに目を向ける。


「私のメンバー入りを認めていただけますか?」


 無論、サムには断る理由など何も無い。即座に首肯した。

 ティムは満足げに何度も大きく頷いている。


「ちょっと待った」と、ジョニーが口を挟んだ。


「何か問題があるの? ジョニーから誘ったんだよね」


 サムのこの言葉を無視して、ジョニーは続けた。


「メンバー入りには一つ条件がある」


「何ですか? 出来ることと出来ないことがありますが……」


 首をひねるアルを指差し、ジョニーが言う。


「それ、それだ。敬語はやめてくれ」


「分かりまし……いや、分かった」


「それから、今まではGHホールの客としての遠慮があったと思うが、そういうまどろっこしい物もナシでいこう。言いたいことはどんどん言おう。そこのタム回しはいらない、とか、ハイハットの締めが甘い、とか、バスドラがズレてるとか」


「全部俺のことじゃないか」


 ティムが片眉を吊り上げるが、ジョニーは無視。サムは笑いをこらえながら、アルを伺う。アルはうっすらと微笑を浮かべ、言った。


「分かった。それなら言わせて貰うが、『朝までロケンロール』のコンセプトは何だ?」


『朝までロケンロール』は『クリスチヌス』のオリジナル曲だ。キーとなるコードはAであり、そこから始まりE、D、と続く。典型的なロックのスリーコードの曲だ。


「特に最後の繰り返しの部分。極限まで増やしたドラムの手数に、ギターの早弾き、おまけにベースタッピングまで入ってくる。キングクリムゾンの『21世紀の精神異常者』でも目指しているのか? 違うだろう? ……と、いった類の違和感を覚えた曲があといくつかある。その原因はバンド全体での曲に対する意識の統一が出来ていないからだ」


 サムとティム、ジョニーの三人編成になってから、バンドのミーティングなどは久しく行っていない。それぞれが曲の原案を持ってきて、それぞれが好きに自分のパートを考え、それで終わりだった。ティムが入ってから、曲数は飛躍的に伸びていたにも関わらず感じていた漠然とした停滞感。アルの指摘は、まさにその本質を突くものだった。


「俺も、薄々そうじゃないかと思ってたんだ」


 ティムがしれっと言ってのける。

 サムは苦笑を噛み殺しながら、ジョニーを伺う。


「そうだな。いや、そうなんだろうな。……、ま、その辺の難しい話は三人で頼む。俺は歌うだけさ」


 ジョニーは生ビールを一気に空けると、店員にお代わりを注文した。

 サムとティムも飲み干し、アルコールを追加注文する。

 ジョニーのビールと一緒に、鰯の煮付けが運ばれてきた。メニューの中で安いものはどれも魚料理であった。必然的に注文もそこに集中する。

 この店も『株式会社IWASHI』に関係があるのだろうか、と何となく考えていると、


「さて、そこで提案なんだが」


 と、ティムが身を乗り出して話し始めた。


「4人になったところで、思い切ってバンド名を変えてみてはどうだろうか」


「あ、いいね、それ」とジョニー。


「確かに、それも一理あるか」とアル。


「いいんだけど、でも『クリスチヌス』はある程度名前も売れているからね。変えるとなるとそれなりに覚悟がいると思うけど」


 サムは口ごもるが、ティムは虚空を見つめたまま、言った。


「過去の栄光にしがみついていては進歩が無い。世界に覇権を打ち立てるためには、その程度で躊躇していては話にならないのだ」


 世界の前に日本だろう、という言葉を飲み込み、サムが言う。


「『世界に覇権を打ち立てる』ってどっかの誰かのセリフみたいだね」


「『株式会社IWASHI』の社長だろう」とアル。


 日本に敵が無くなった会社だからこそ言えるセリフである。ティムはどこかでその言葉を聞いて、その言い回しを気に入ってしまったに違いない。


「いや、ティムの言うこともあながち間違ってはいない」


 アルはそこで一息つくとビールを一口だけ口に含み、続けた。


「今からちょうど一年後に、ある野外ロックフェスタが開催される。そこへの出演が、どうやら決まりそうなんだ」


 サムは一瞬言葉を失った。


 ロックフェスタと聞いて、1969年のウッドストックを思い浮かべた。その愛と平和の音楽祭には40万人の若者が集い、交通網を閉鎖に追い込むほどの影響を与えたと聞く。

 

「まぁロックフェスタとは言っても、私達が出られるということは、その程度の規模だということだが、それにしても進展には違いない」


「なるほど、確かに俺たちにはGHホールは狭すぎるぜ」


 言うとティムは腕を組む。


「で、場所はどこなんだ? 大阪か? それとも東京進出かい?」


「ウランバートル」


 アルはさらりと言った。

 ティムは言葉を失っている。

 ウランバートル。

 どこだ? 

 一体何の話をしているんだ?

 サムはアルコールの回った脳を必死に回転させる。


「ウランバートル……モンゴルの首都だ。詳しくはマネージャーであるクリスチーナに聞いてもらったほうがいいが、何にせよチャンスだ。断る理由はない」


「ついに世界進出か」


 ティムは目を輝かせている。

 ジョニーがアルに目を向け言った。


「いつ、行くんだ? それに出るとしたら、ある程度先に行って名前を売るために活動しておいた方がいいんだろ?」


「さすがジョニー、その通りだ。日本を発つのは来年の六月。それまではこちらで今まで通りライブをするが、その後は中央アジアでのツアーとなる」


 ジョニーは頷く。ティムは一人でぶつぶつと何かを呟いている。

 サムは手放しに喜ぶことが出来なかった。なぜ中央アジアへ? という当然の疑問もさることながら、クリスチーナが決定したと言うのであれば、なぜ、最初にそのことを知らされるのが自分ではないのか。


「それならなおさら心機一転、バンド名を変更するべきだぜ……実は考えてあるんだ。ジョニーのJ、アルのA、サムのS、そして、ティムのTで、『JAST』……どうだい?」


 してやったりの顔をするティム。


「……まぁ、いいんじゃないか、うん、JASTね」


 アルが取り繕うように言う。

 サムはとりあえず頷く。『JAST』という名前自体には是も非もない。

 ジョニーが空になったジョッキを片手に店員を呼びお代わりを頼んだ後、言った。


「いいよ、それで。ただし、一つ条件がある」


「またかい? 何?」


「JASTの名前の由来については、誰にも口外しないようにしよう。ここだけの話ということで、ひとつよろしく」


 大きく頷くサムとアルを、ティムが不思議そうに眺めていた。

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