第6話 第一章 ー6

 サムとアルが一緒に繁華街へ戻って行ったことを見届けたクリスチーナは、一路自宅マンションへと向かう。

 クリスチーナがマンションにたどり着くと、ちょうどいつもの男がタバコに火をつけたところであった。男はクリスチーナを視認すると、タバコを道に捨て靴で踏みつけた。

 近づいてくる男を視線で制して、クリスチーナは男の隣を通り過ぎた。

 何度か角を曲がり、路地裏に入ったクリスチーナは足を止め振り返った。

 閉店後の飲食店の裏窓から、うっすらと明かりが漏れている以外に照明はない。相手の顔の輪郭がようやく確認できる程度であった。


「今日はここかい? クリスチーナ?」


「毎回安全な場所を探す方の身にもなってほしいわ。それから、自宅前で待ち合わせっていうの、そろそろ止めにしてもらえないかしら?」


「考えておく」


 男はそっけなく答える。きっと上の人間に伝えることもしないだろう。

 これまではそれでも良かった。ただ、ティム・Bとアル・Pとの関わりが出来てからは状況が変わりつつあった。ティムがバンドに入ってきたこと自体、敵対する何らかの組織の差し金に違いない。そして、そのティムからの連絡を組織に伝える役割を務めるのがアルだ、とクリスチーナは考えていた。そして、ティムのあからさまな尾行はカモフラージュとしか考えられない。裏ではもっと大きな計画が進行していると考えるのが妥当である。

 そのことを伝えようかどうかクリスチーナが迷っているうちに、男が封筒を差し出した。組織からの指令が記された手紙の入った、いつもの茶封筒だ。

 クリスチーナが受け取ると男は無言で背を向けた。クリスチーナは男の背中をしばらく見送ると、その場を後にした。

 自宅マンションにたどり着き、階段に足をかけた瞬間、目の前に影が現れた。


「浮気、というわけではなさそうですね」


 クリスチーナは顔を上げる。

 その視線の先で、アル・Pが笑みを浮かべていた。

 一度振り切ったことで安心しきっていたのか、それとも、つけられている事にも気づかないほど酔っていたのだろうか。自分に問いかけたクリスチーナは、結局その答えが見つからないまま、ただ茶封筒を握り締めた。


「ついて来て」


「もちろん、そのつもりです」


 アルを部屋に導き、鍵をかけたクリスチーナは、電気をつけ椅子に座る。アルが続いて床に座り込む。


「女性の部屋に入るのに、躊躇しないのね……慣れているのかしら?」


 クリスチーナは言うと少し笑ったが、アルは逆に真顔に戻る。


「猫の額」


 ぽつりと吐き出されたこの言葉に、クリスチーナの心臓が跳ね上がる。

 しばらく無言でアルの目を見つめていたクリスチーナであったが、微動だにしないアルに負け、視線をそらす。


「あなたには負けたわ。どこまで知っているの? ……と、その前に、一つ教えて。今日は完全に帰ったと思っていたわ。あれはお芝居?」


 アルはいつもの笑みを浮かべながら、言った。


「お芝居、というわけではなかったんですが、もし、自分が付けられている立場だったら、どうするか、ということをちょっと考えましてね。完全に振り切って見えなくなったらそれで良しとするか、それとも……」


「それとも?」


「さらに用心のため、相手が完全に諦めるのを見届けるか」


 クリスチーナは、なるほど、と相槌を打つ。


「でも、その後、さらにつけられているなんて、全然気づかなかったわ。結構そういうのには敏感なんだけどね」


「いえ、後をつけたりはしていませんよ」


「え? ……でも」


 アルは少し姿勢を崩して楽しそうに笑うと、言った。


「誰が後をつけたと言いましたか? 流石にサムと別れた後さらにあなたに追いつき、あまつさえあなたに見つからないように後をつけるなんて、無理です」


「じゃあ、さっきの『浮気というわけでは…』っていうセリフは――」


 カマをかけられた、ということに気づいたクリスチーナは話を途中で切り、心の中で舌打ちをする。アルはただ、サムと別れたあと、直接このマンションに来てクリスチーナの帰りを待っていただけだったのだ。

 つまり、自宅マンションでアルに会った段階では、まだ何とでも言い逃れが出来る状況だった。そして、負けを認めた時点で、クリスチーナの敗北が決まったのである。


「今日は、少し酔っていたのよ。……いいわ。で、どこまで知っているの? でも『猫の額』を知っているのなら、もう私から聞けることは何も無いかもしれないけど。むしろあなたの方がこの業界については知っているのかもしれないわね」


「いえ、私はただの弱小ライブハウスのアルバイトですから。それよりも」


 アルが真顔に戻る。


「一つ分かってほしいことがあります。私をどこかの組織の人間だと思っていますか?」


 クリスチーナは迷わず首肯する。

 アルは軽く首を振ると、続けた。


「私は個人的な事情からあなたをつけさせてもらいました。そして、これだけは断じて言いますが、私はあなたをどうこうしようという気は全くありません。ただ、一つだけお願いがあるのです」


「あなたを信用するかどうかは置いておいて、とりあえず聞かせてもらえるかしら、その『お願い』を」


 アルはありがとう、と小さく呟くと、話を続ける。


「私の中央アジアでの滞在費を用意して欲しい」


「中央アジア?」


 何を言っているんだろう、というのがクリスチーナの正直な感想であった。


「ピンポイントに言えば、ウランバートルです」


 クリスチーナは口を挟まずアルを見つめていた。

 アルが少し視線をそらす。彼にしては珍しい仕草だ。


「分かりました。信用を得るためにも、少し話しましょう。もっとも、人に話すのはこれが初めてですが……」


 と、アルの話を電話の呼び出し音が遮った。

 クリスチーナはアルに軽く視線で確認してから、受話器を上げた。

 相手はサムだった。特に用事は無く、ただ無事に帰りついたことの確認のようだ。

 ひとしきり当たり障りの無い会話を交わし受話器を置いたクリスチーナは、アルに笑いかけ言った。


「ごめんなさい、サムからだったわ」


「ああ、知っている……いや、何となくそうかな、と思いましたよ」


「電話してくることなんて、珍しいんだけどね。まぁ私にとってその方がやりやすくて助かってるんだけど……」


「サムと付き合っていることも、何かのカモフラージュなんですね?」


 アルの言葉に、クリスチーナは首を傾げる。

『猫の額』という言葉が出てきたことで、アルがある程度はクリスチーナの目的を知っているもの、と考えていたがどうやら見込み違いのようだ。


「サムの方も、別に何となく付き合っているっていうだけだと思うわ、特に最近はね。別れる理由も無いってところじゃないかしら」


 言い訳をしているようだ、と、クリスチーナは自嘲する。

 アルは一瞬考える仕草をした後、それはどうでしょうか、と言葉を濁す。

 クリスチーナは反論しようと口を開きかけたがすぐに言葉を飲み込み、言った。


「ま、その話はもう止めましょう。不毛だわ」


「同感です……それでは、話を続けましょうか?」


「と、その前に、確認しておきたいことがあるわ。私と『猫の額』の関係に、どうやって気づいたの?」


 業界についてのアルの知識レベルを認識しておく必要がある、とクリスチーナは考えていた。その答え次第で、話せることと話すべきではないことが自ずと決まってくる。


「恥ずかしい話ですが、今日、ここに来るまでは何の確信もありませんでした。それも……」


「カマをかけたってわけね」


 クリスチーナの部屋でのアルの何気ない第一声、「猫の額」、というのも、アルにとっては勝負だったのだ。そして、クリスチーナは見事に敗北した。まるでピエロだ、と人事のように心の中で笑ったクリスチーナは、アルに話の先を促した。

 アルがうっすらと笑みを浮かべながら、話し始めた。


「このマンションですよ」


「マンション?」


「そう、知っていると思いますが、ここには数年前工場が建つ、という話がありました。元『鰯社』……現在では『株式会社IWASHI』関連の食品加工工場です。順調に土地の買収を進めていた『株式会社IWASHI』ですが、それが頓挫した理由は……」


「このマンションの買収に失敗したから」


 クリスチーナが先に答えると、アルが首肯し、続けた。


「実際、かなりの額を用意したということですが、それでも全く相手にされなかった、ということです。……さて、なぜでしょう」


 アルがクリスチーナを見つめていた。

 答えを知っているクリスチーナは、先をどうぞ、と呟き発言をアルに譲る。


「ここからは私の想像でしかないのですが、お金で動かない、ということはそれ相応の理由があるはずです。例えば、このマンションに非常に強い執着を持った人間がいる、ということが考えられます。しかし、これについては私が調べた限りの情報では、可能性は極めて低い、と判断しました。では、マンション自体に理由があるのでなければ一体何が理由なのか、と逡巡した結果、私の中では答えは一つでした。それは、誰かが『株式会社IWASHI』の邪魔をしようとしている、ということです。実際、この工場建設の頓挫があの会社にとってはかなりの損害だった、と聞いたことがあります。まぁもっとも、その程度でぐらつくような会社ではないですが」


 ここで一息ついたアルに、クリスチーナは愛想笑いを浮かべる。

 以前から収益率の高い会社として有名であった『鰯社』が『株式会社IWASHI』に改名したのは、ほんの数年前のことである。新聞記事によれば、「世界に覇権を打ち立てる」という社長の方針に従い、改名に至ったとのことである。そして、その後も破竹の勢いで成長を遂げ、基幹産業である食品業界だけでなく、出版業界にも手を出し成功を収めた。さらに今後音楽業界へも進出すると言う噂すら存在する。


「調べていくうちに、そんな『株式会社IWASHI』を良く思わない集団の存在を、私は偶然知りました。それが、『乱獲された鰯を食卓から追放する会(OSSOT)』、通称『猫の額』でした。元々、異常な乱獲による鰯の、食品としての安全性を疑問視した数人の主婦らの呼びかけにより結成されたということですが、かなり大きな組織になっているという噂を聞きます。もっとも、今でも表向きはただの主婦連合とはなっていますけどね」


「で、このマンション自体が『猫の額』の所有物であることを突き止めたってわけね。なるほど、そこまで調べれば、そこで悠々と生活する私が『猫の額』に関係していると考え付くのも、そんなに難しい話じゃないわね。でも……よくそこまで、調べたわね」


 その言葉はクリスチーナの本心からのものであった。

 逆に、アルにそこまでの労苦をさせた理由に関心が向いた。

 クリスチーナは一度席を立ち、台所へ向かう。コップに水道の水をくみ、アルの目の前に差し出す。アルは受け取り軽く口をつけた。


「それじゃ、話してくれるかしら、中央アジアに、……とりわけウランバートルにこだわる理由を」


「分かりました。一言でいえば、私の父です。……父は数年前、長年務めていた会社で、リストラの対象となり、退職しました。実質的には解雇です」


「……それは、ご愁傷様」


「いや、それ自体、私は何とも思っていません。ある意味では、自分の身を守る術を知らなかった父の責任だと私は考えています。ただ、私が興味を持ったのは、その理由です。父の勤めていた缶詰工場は『株式会社IWASHI』のグループ会社で、もちろん業績もよく、従業員を解雇する理由など無かった。しかし、父はリストラされた」


 アルは何かを読み上げているかのように、淡々と話す。

 クリスチーナはうそ寒さを感じながら、アルの話に聞き入っていた。彼女自身、『株式会社IWASHI』について多くを知っているわけではない。自分で調べるということすら、これまで考えもしなかった。ただ、組織の中で任務を全うする、ということだけを優先させていた。それがクリスチーナの日常であった。


「リストラされる数ヶ月前、父は会社からの命でモンゴルに赴きました。ウランバートルに工場を建設するための技術者として派遣されたのです。父は入社以来現場一筋でやってきました。また、私から見ても真面目な人間でした。工場内での作業のノウハウを伝えるには最適の人材だったのでしょう。もちろん社会主義国家ですから、表向きはモンゴル政府が『株式会社IWASHI』に依頼をしたはずです。しかし……」


 アルはそこで口を閉ざした。

 クリスチーナが先を促すと、アルは首を振る。


「少し、喋りすぎました。もういいでしょう? 要するに、父は、そこで何かを知ってしまったのです。『株式会社IWASHI』にとっては知られたくなかった、何かを」


「分かったわ。その辺で、勘弁してあげる。――と、それから、さっきの『お願い』の件だけど、こちらからも条件があるわ」


「条件?」


「そう。さすがに組織のお金であなただけを海外に送ることは難しいわ。残念ながら私にはそこまでの権力はない。ただし、バンドをウランバートルへ、ということであれば話は別よ」


「バンドを……、『クリスチヌス』ですか?」


 小首を傾げるアルに、クリスチーナは続けて言った。


「つまり、あなたには『クリスチヌス』にメンバーとして加入してもらいたいの。ベーシストとしてね」


 しばらくの間、沈黙が流れていた。アルは首肯しなかった。ただ、あからさまな拒絶を示したわけでもない。バンドに加入する、ということの意味を自分の中で吟味しているように見受けられた。


 クリスチーナが椅子から立ち上がると、同時にアルも腰を上げた。

 とりあえず保留、というのが、この時のアルの答えであった。

 玄関から去っていくアルの後姿を眺めながら、彼はまだ何かを知っている、とクリスチーナは確信していた。彼の父が知ってしまった事実の一端を、彼もまた知っているのだ。

 そこまで考えたとき、クリスチーナは胸を締め付けられる様な焦燥を覚えた。

 自分は組織について何を知っているのか?

 これまでは無意識に考えることを拒絶していた問いだ。物心付いた時から身近にあった『猫の額』。当たり前の存在だったからこそ、見ていなかった何かがあったのかもしれない。

 アルが礼を言って部屋を出て行く。

 その背中を見送ったあと、クリスチーナはしばらくぼんやりと立ち尽くしていたが、すぐに洗面台へ行き、蛇口を捻る。勢い良く流れる水を両手ですくい、こすり付けるようにして顔を洗う。

 クリスチーナは鏡に映る自分の顔を凝視した。胸を締め上げていた不愉快な感覚が、次第に消えていく。その感情を、一時の気の迷いだ、と解釈したクリスチーナは大きく息をついた。

 机に戻ると、茶封筒が視界に入った。

 中の指令書を取り出す。

 目を通す前に、一瞬顔をあげた。


「そういえば、ティムは何なのかしら。アルの話には全く出てこなかったということは、彼はまた別の組織の人間? いずれにしても油断できないわ」


 アルとティムについて、クリスチーナは組織には伝えていない。それは、確信が無かったということもあるが、今の自分の生活に組織が踏み込んで来ることに対しての抵抗感が大きかった。


 アルに正体を知られた、ということを組織の人間に伝えるかどうか、一瞬逡巡したクリスチーナであったが、結局は様子を見ることにした。その自分の判断について、彼女自身明確な理由付けが無かった。考えれば考えるほど、正体不明の焦燥に駆られるのだ。それはクリスチーナにとっては、耐え難い感覚であり、それ以上深く踏み込むことは彼女にとっては自殺行為のように感じられるのであった。


 その日、クリスチーナは指令書の中身を確認せずに床に付いた。

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