第20話 第二章 ー12

 いつのまにか街を抜け、草原地帯へ乗り入れていた。

 視界の端に、馬をとらえた。


「天才だ」


 少し離れた位置に車を停め、ゆっくりとその馬に歩み寄る。

 紛れもなく、あの『神の奇跡』だ。ジョニーは既に消えていた。途中で振り落とされたのか、それとも自ら乗り捨てたのは分からないがそのことは今問題ではない。

 ティムはもう一度、天才だ、と呟く。

 この追跡劇も彼の伝説の一部として、後の人間の語り草となっていくことは間違いない。馬が逃げた後の迅速な対応。そしてその後の他を寄せ付けぬほどの素晴らしい推理による追跡。そして発見。完璧だ。

 ティムは喜ぶレイチェルの姿を脳裏に思い描く。笑いが漏れた。これで駄馬の一件は帳消しどころか、それを補って余りある功績だ。


 と、馬が首を回し、ティムの方を振り返った。

 ティムの心臓が一瞬にして鼓動を早めた。

 甲高いいななきを轟かせる『神の奇跡』。激しく体を震わせ、前足を天高く掲げた。

 嫌な予感がした。

 どうするか、どうすればよいか、ティムの思考回路が動き出す前に、馬が地面を蹴った。どどっ、どどっと地響きが轟く。

 次の瞬間には既に目の前に巨大な足が迫っていた。

 視界が、黒く染まる。

 蹄だ、というどこか傍観者のような感想を最後に、ティムの意識は途絶えた。



 目を覚ましたティムは一瞬、自分がレイチェルのゲルにいるという錯覚を起こしたが、周りの風景を見回し、そうではないことに気づいた。

 自分がなぜここで寝ているのか、全く記憶が無い。


「そうだ、馬……神の奇跡は」


 かすかではあるが馬を発見した記憶はある。そしてそれを最後にティムの記憶はぷつりと途切れている。

 と、ゲルの外で、馬のいななきが聞こえた。さらに、それに呼応するように別の馬が声を発している気配も感じられた。ティムはすぐに起き上がりゲルを出た。


『神の奇跡』と、もう一頭、若干小ぶりな馬が、それぞれ木のくいに紐でつながれている。夕暮れの日の光に、『神の奇跡』の毛並みが輝いて見えた。ティムは恐る恐る近くに寄っていく。『神の奇跡』がティムを振り返った瞬間、条件反射で心臓が跳ね上がる。ティムの脳裏には真っ黒な蹄がフラッシュバックしていた。


「気が付いたかい?」


「誰だ!?」


 ティムはすばやく振り向き身構えた。

 男は少したじろいで両手を上げた。


「誰だ……とは心外なことを。君の口からはむしろ感謝の言葉が聞きたいね」


「感謝?」


 ティムは警戒を解く。

 ゆっくりと辺りを見回した。

 遥かかなたに、市街地が広がる。恐らくウランバートルだろう。しかしそれ以外は見覚えの無い風景が広がっていた。草原地帯には違いないのだが、所々に巨大な岩石で出来た山がそびえている。


「この『神の奇跡』を追って君は車で草原に乗り入れた。それは覚えているかい?」


 ティムは頷いた。

 そこまでは覚えているのだ。

 そして、その次の記憶が真っ黒な蹄だった。意味が分からない。


「あの時、君は気づかなかったと思うけど、僕も物陰に隠れて『神の奇跡』の様子をうかがっていたんだよ」


「あ、」


 車で馬の行き先を住民に訪ね歩いていたとき、「二頭の馬が」というセリフを何度も聞いた。ひょっとしたら――

 ティムは視線を馬の方へと向けた。

 この小ぶりな方の馬で、『神の奇跡』を追っていたということか。


「ご明察。僕はこの馬でウランバートルまで買い出しに行ってたんだけど、いや驚いたよ」


 男は大きく首を振り、先を続けた。


「何たってあの有名な『神の奇跡』が、目の前を走り抜けていったんだから」


「そのとき、人は乗ってた?」


 男は一瞬考える仕草をしたが、すぐに首を振る。

 どうやらその時からすでにジョニーは姿を消していたようだ。


「それで、何かあったのかと思って、すぐに後を追ったんだよ。大変だったよ、この『神の奇跡』の脚力についていくのはね。それでようやく足を止めたのがこの近辺の草原で、僕も追いついてはいたんだけど、何せ、『神の奇跡』の方もだいぶ興奮していたようだったから、掴まえようにも近づけなくてね」


「ああ……」


 ティムの脳裏に、天高くいななく『神の奇跡』の姿が浮かんだ。

 そして地面を蹴り、すさまじい勢いで自分の方へとかけてくる巨大な馬。


「びっくりしたよ。そんな『神の奇跡』に、あろうことか無防備で近づいていく人がいたんだからね。馬鹿かと思って見守っていたら、案の定思い切り蹴り飛ばされてたってわけ」


 でも、その勇気には敬意を表するよ、という男の言葉に、ティムは頷く。


「やはり、男はやる時にはやらねばならないのさ」


「はぁ」


 男は困ったような表情で少し口を閉ざしていたが、ティムが首をかしげると、すぐに笑顔を見せ話し始めた。


「まぁ、なんにせよ無事で何より。しかし、一体どういったいきさつで、『神の奇跡』を追っていたんだい?」


 どこから話せばいいのか、ティムは少し頭をひねったが、結局、最初から全て話すことにした。

 馬が狙われているという事実、そしてライブに老人とレイチェルを招待したこと、さらにジョニーの奇行まで。

 男は黙って頷いていたが、


「『神の奇跡』が、狙われているのか……よし、分かった。僕が何とかしよう」


「えっ? 何とかするって……」


 男は頷くと、言った。


「僕はここらをとり仕切るある組織の人間なんだよ。実はね。だから、上の人間に伝えてくるよ。きっと『神の奇跡』を狙うような、そんなやからがいることを知ったら、皆怒り狂うんじゃないかな。それで、『絶対に守り抜く』ってことになると思うよ」


 そう言うと、男は早くも準備に取り掛かっていた。上着を脱ぎながら、ゲルに入っていく。その肩の髑髏のタトゥーがティムを少し驚かせたが、何も見ていないフリをした。

 男は颯爽と自分の馬にまたがると、


「それじゃあ、今日中には戻ってくると思うから、ゆっくり休んでおいてよ」


 とだけ言い残し、馬を走らせていく。

 その後姿を見送ったティムは、ゲルに戻り座り込んだ。

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