第21話 第二章 ー13
ひどく疲れていたこともあったが、足が心配だったのである。痒みはあまりなかったが、逆に麻痺してしまっているのではないかと思い、靴下を脱いでみた。
初期よりも徐々に患部が拡大しているように感じられた。少し手で触れてみると、途端に痒みが襲ってきた。しかし、ここで掻いてしまっては負けである。ティムはそのまま靴下を履くと、その上から何度も手のひらを打ちつけた。じわりと広がる心地よい痛み。
そのまま絨毯に横になったティムは目を閉じ、改めて「痒み」の存在意義を問い直していた。まどろみの中、「痒み」など死ねばいいのに、とぶつける当てのない不満から入り、そのままレイチェルの姿が浮かんできた所で、ティムは目を開けた。
表で、人の動く気配がした。
ティムはゲルから顔を出した。
帰ってきた男が、ちょうど馬から下りているところであった。
周囲は完全に闇に覆われており、少し肌寒い空気に包まれている。男がえらく早く帰ってきたと思ったが、そうではなくティムがいつのまにか眠り込んでいたのだろう。
「吉報だ」
と覇気のある声で話す男に、ティムが先を促した。
男によれば、正式に組織の力でその悪者どもを追い払うことに決定したということであった。しかし、そのためには契約書を作らなければならない、という条件があった。
「契約書?」
ティムが首をひねると、男も両手のひらを上へ上げお手上げのポーズを返す。
「全く、最近は何でもそうやって契約書とかいうものを作らなければ何も出来ないことになった。口で言えばすむ話なのにさ」
「それは、口だけならなんとでも言えるからさ。それで後で知らぬ存ぜぬで通せばいいからだろ。だから契約書が必要なんだ」
我ながらなんというレベルの低い話をしているんだろう、とティムが考えていると、予想に反して、男は何を言っているのか分からない、という表情を返してくる。
「いや、だから、嘘をついて騙す人間がいるからってことさ。そう考え込むような話じゃないぜ……」
「嘘をついて騙す?」
なんだそれは、全く意味がわからない、どういうことだと男がぶつぶつ呟いているが、ティムは受け流すことにした。一体何の意味がどう分からないのかが、ティムにはさっぱり分からなかったのである。
近日中には契約書を持ってレイチェルと老人のゲルに赴くことに既に決まっている、と男はティムに伝えた。
「それよりも、早くこの馬をその女の子のところに届けてあげたらどうだい?」
どうやら男は同伴するつもりはないようだ。それはティムにとっては僥倖であった。つまり、全ての手柄を自分の物に出来るということである。もっとも、いの一番に馬に立ち向かっていったのは誰あろう、ティムである事から考えて当然のことではある。
ティムは『神の奇跡』の手綱をひきながらレイチェルの待つゲルに向かう。どういうわけか一時前に興奮して暴れていたのが嘘のように静かに付き従ってきている。男に言わせれば、『神の奇跡』は元来大人しい馬なのだそうだ。
レイチェルがゲルの前で座り込んでいた。老人の姿は周囲には見当たらない。
ティムに気づいたレイチェルが、駆け寄ってくる。
「ティムさん……『神の奇跡』探してきてくれたんだ! ありがとう!」
「礼は……」
いらないぜ、と言おうとした時にはすでにレイチェルはゲルの方へ駆け出していた。
中から、老人が飛び出してきた。
「おおー、足の人! さすが足の人じゃあ!」
駆け寄ってくる老人とレイチェル。
話を聞けば、この二人もつい先程まで探し回っていたようであった。
「どこにいたの? どうやって……今までどこに?」
矢継ぎ早に質問を浴びせてくるレイチェルを手で制して、ティムは話し始めた。
「まず、車で追いかけたところまでは知ってるよね?」
レイチェルと老人が頷く。
「それで、途中何度もあたりの人たちに尋ねながら馬の行方を探してだいぶさまよっていたんだけど、ついに見つけたんだよ。ある草原でね。……そこで、僕が着いた時には『神の奇跡』はまだ相当興奮していてね。それでうかつには近寄れなかったんだよ。僕は物陰に隠れてしばらく様子を見ていた。しばらくはそうやって機会をうかがってたんだけど、ふと見ると、『神の奇跡』に近寄っていく人がいるのに気づいたんだよ。しかも全くの無防備でふらふらと近づいていく。どこの馬鹿か、とその時は思ったね。」
そこまで話し終え、ティムは遠い目をした。
「それは確かに馬鹿ね」
と言うレイチェルに老人も続き、
「ああ、相当な馬鹿たれじゃあ」
ティムはそこで一瞬だけ間を空けて、続けた。
「当然『神の奇跡』はその人の方へ向かって突進をし始めた。危ない、と思った時には僕の体は勝手に動いていたね。『神の奇跡』の一撃目を顔面に受けたその男が、さらに踏みつけられそうになった瞬間、間一髪、僕が男を助け起こし、その場から離れたんだ」
「顔面を……」
レイチェルがちらっとティムを伺い、すぐに下を向く。
その照れた仕草にティムの心臓が跳ね上がる。
「それで、その後は『神の奇跡』との我慢比べだったね。どちらが先に根を上げるか。それで、僕は勝ったんだよ」
ちょっと結びが強引だったかな、とも思ったが、二人とも感動のあまり言葉もない様子であったので、これでよかったのだろう。
「顔面をのぉ……」
老人もちらっとティムに視線を向け呟いた。
「そう、それで近くのゲルにその男をとりあえず連れて行き目覚めるのを待っていたんだ。そして目覚めた男は言ったね。何か恩返しをしたい、と。僕はそんなものを求めていたわけじゃないから、始めは断ったんだよ。だけど、男がどうしてもって聞かないから、それなら、ということで今の状況を話したのさ」
「今の状況?」
「そう、今のこの馬が狙われているという状況さ。そしたら、その馬を自分達が守る、と言い出したんだ。どうやらこのあたりを取り仕切るある組織の一員らしくて」
「ウェスタンローゼスか」
老人が真剣な表情で言った。
ティムが首をかしげていると、老人は言葉を継いだ。
「肩に、タトゥはあったか? 髑髏のタトゥじゃ」
「ああ、そういえばあったけど……」
そのティムの言葉に、老人とレイチェルの表情が一瞬にして明るくなる。
一体何がどうなっているのだろう、とティムが二人を見つめていると、レイチェルが弾んだ声で言った。
「彼等にはね、嘘の概念がないの」
「嘘の概念?」
「そう、要するに、彼等は嘘をつかないの……もっと正確に言えば、嘘をつくと言うことを、知らないのよ。だから、何がどうなっても彼等の言っていることは信用できるの」
嘘をついて騙す、と言った時の男の反応を思い出し、ティムは納得した。
「ということは……」
「そうよ。彼等が守るって言ってるならそれは絶対よ」
言うと、レイチェルは老人と手を取り合いぴょんぴょんと跳ねている。
その光景にティム自身幸福感を感じながらしばらく眺めていたが、身を翻すと、
「そろそろ帰るよ」と切り出した。
こういう時こそ、引き際が肝心なのだ。
背後ではレイチェルがこちらを見つめていることは間違いない。
「あの、少し休んでいったら……」
「いやぁ、今日は戻るよ。ゲルで皆が待ってるんでね」
ティムは振り返らずに手だけで応じた。
「でも、……痛むでしょう?」
痛む?
何の話だろうと思いながらも、ティムは応えた。
「いや、足は大丈夫だよ」
「足? ……え、と、まぁじゃあ、気をつけて!」
ティムはポケットに手を突っ込んだまま、足を進める。
ここについてからレイチェルに背を向けるまでのことを、順番に思い出していた。どこをとっても、今までで最高の出来だ。
自分のゲルが近づいてきても、浮かれた気分は抑えきれなかった。自然、顔がにやついてくる。
ゲルの前でサムが一人、ギターを弾いていた。アンプには繋いでいない。
「ジョニーは?」
挨拶を抜きにして、サムに尋ねた。
サムはちらっとティムを伺い、一瞬驚いたような表情をしたが、すぐに下を向く。指板を押さえ、コードをかき鳴らしながら、言った。
「ジョニーはあれから戻ってきてないよ……それより、とにかく鏡を見た方がいい」
鏡?
ティムの脳裏に、過去の悪夢が去来する。
まさか、という思いと、当然そういうことも予想しておくべきだったという思いがない交ぜになり、ティムの体を駆け巡っていた。
鏡に映ったのは、蹄だった。
草原で『神の奇跡』に蹴られたときについたものだ。
「顔面を」と言うフレーズに妙にこだわっていたレイチェルと老人。
そして、帰り際のレイチェルの「痛むでしょう?」という言葉。
思い出した瞬間、ティムは鏡を取り落とした。慌ててその場にしゃがみこみ、鏡を手に取った。その手は小刻みに震えていた。
しばらくは家にこもっていよう、と決めた矢先のことだった。
ゲルで寝込んでいたティムの耳に、外からの「『神の奇跡』が……」という誰かの叫び声が飛び込んできた。ティムは飛び起きた。すぐにゲルを出た。
「『神の奇跡』が奪われた」
ティムの耳には、そう聞こえた。
思考回路が回り始める前に、彼の体は走り始めていた。
そんなはずは無い、という思いと、『神の奇跡』が奪われた、という住民の悲鳴とが、順々に耳鳴りのようにティムの脳裏に渦巻いていた。
集合住宅を抜け、いつものようにアーケイドをくぐった。
いつも通りの草原が広がっている。
そして――
「おじいさん!」
ティムはゲルの前でくずおれている老人に駆け寄り、肩をゆする。
「おじいさん! 何があったんです? おじいさん!」
老人はうつろな目でゆっくりとティムに視線を向け、
「契約書にサインしたんじゃ……そしたら、やつら『神の奇跡』をそのまま連れて行きおった……それに、レイチェルも……」
その口角からはよだれが流れ落ちている。もはや正気ではないのだろう。
ティムは自分の脳がぐるぐると回っているのを感じていた。目の前の光景がどこか遠くの景色のように感じられ、現実感が全く欠如していた。
ティムはゲルの中を捜すが、レイチェルはいない。
もう一度ゲルから出て、老人の方へと足を進めた。
「……レイチェルは」
老人がゆっくりと見上げてくる。
「連れ去られてしもうた」
何かの発作を起こしたのかというような動きで、老人がティムに襲い掛かって来る。何事かをわめいているが、全く聞き取れない。
ティムは反射的に老人を引き剥がした。老人はその勢いのまま、地面に転がり、手足をばたつかせている。焦点の定まっていない目だけはしっかり見開かれていた。
老人の泣き叫ぶ声が、荒れ果てた草原に消えていく。
ティムはひざから崩れ落ちた。
なぜ? という問いが、次から次へと脳裏に浮かんでは消えていく。
なぜ? と、問うべき対象が何物なのか、それすらティムには分からなかったのであった。
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