第19話 第二章 ー11
サムが帰ってきたのは、ちょうどウランバートルでの初ライブの当日であった。
ジョニーはなぜかそれを予期していたかのように、普段どおりにライブの準備を進めていた。ティムは平静を装ってはいたが内心は気が気ではなかった。
もしアルが現れなかったとしても、ジョニーが代わりにベースを弾けばいいだけの話であるが、もしサムが来なかった場合はライブが成立しないのである。
「遅れてすいません」
という言葉だけをぽつりと吐き出し、そのままギターの手入れを始めるサム。
ジョニーは、ああ、と気のない返事だけを返すとベースをひざに乗せ、チューニングをしている。どうやらアルは来ない、と判断したようであった。
このような状況でライブをしても何も益はない。普段ならキレて出て行くところであるが、この日は違っていた。是が非でもライブをしなければならないのである。
控え室、と言っても仮設のテントのようなものである。
その中に全てのバンドが寿司詰め状態で押し込まれている。馬頭琴を片手に練習している現地人らしき男や、ホーミーの発声練習をしている老人が視界に入る。その中で、ティムは革靴に革製のパンツ、素肌の上に直接革ジャンといういでたちであった。
サムとジョニーを振り返るが、特に周りに気を留める様子はない。ティムは視線を外し一度大きく息をついた。
スティックを握り、何度か手首を回してみた。感触は悪くない。
「JASTさん、次、出番です」
テントの入り口から、声が聞こえてきた。
ジョニーが返事を返し、軽快な足取りでテントを出て行く。
サムは何度かギターを鳴らしてから、その後に続く。
ティムは気合を入れるため、自らの頬を打った。
馬頭琴の男が手を止め、ティムを見上げている。老人のホーミーの声も止まったが、彼の脳は何も認識していなかった。
先日、レイチェルのゲルの前で気を失ってしまうという失態を犯した。これで二度目である。一晩たって目覚めた彼の隣では、レイチェルが座ったままうつらうつらと頭を揺らしていた。
その日は一日、水くみから掃除、食事の準備の手伝いと精力的に働き、夜遅くまでゲルに留まった。
レイチェルが「おじいちゃん」と呼ぶゲルの老人には完全に『足の人』として認識されており、もはや訂正することはできないようだった。
その老人とレイチェルを今回のライブに招待したのである。
始めは嬉しそうにしていたレイチェルであったが、老人の方に目を向け、すぐに困ったような表情を見せた。
「気持ちは嬉しいんですけど……」
この後の言葉は老人が引き継いだ。
老人によれば、彼等の所有する馬が狙われているため、二人ともここを離れるというわけにはいかない、という話であった。『神の奇跡』と謳われる伝説の馬だ。ティムの顔に蹄の跡をつけた、あの馬である。
それならレイチェル一人だけでも、という言葉を何とか飲み込み、
「僕に任せてください」
と老人の手を握った。
「必ずや、馬を守り抜いてみせます」
その時のレイチェルの表情を思い出しながら、ティムはステージに向かう。あれは完全に恋する乙女のそれだった。
ティムがドラムセットに座った瞬間、周囲からの異様な歓声が耳に届いた。
始めは無視してドラムのチェックに集中していたティムであったが、
「『神の奇跡』だ」
という言葉に、我知らず振り返った。
まず、巨大な馬が目に付いた。すぐに老人とレイチェルが視界に入った。『神の奇跡』を守るように両側から馬をひいている。
ついにこのときが来た、とティムの胸が躍る。
結局馬も同伴で、という条件付きで二人はライブに来ることになった。
眺めていると、馬の後ろからはぞろぞろと現地の人達が付き従っていた。さながら大名行列のような雰囲気だ。
サムがその集団を驚いたように見つめている。
「どうだ、驚いたか。俺の客だぜ」
ティムが言うと、サムはちらとだけ視線をこちらに向け、
「……ロックをやる環境じゃないね」と言った。
ウランバートル郊外の特設会場である。元々ロックが出来る設備など整っているはずもない。最たる例としてはスタッフの知識の無さがある。それはドラムセットの組み方に如実に表れていた。
始めはハイハットを逆にセッティングしようとしていたので、ティムが指示を出して変更した。それでやれやれと椅子に座ると、今度はバスドラ用のペダルが無いという始末。
「環境など関係ない。こういう時に俺達のロック魂を見せつけてやればいい。それで全てを変えてやるのさ」
サムは応えずにエフェクターの音作りを続けている。
リハが無かったため、音質やバランスに関してはぶっつけ本番になる。
どうやら納得のいく音がなかなか作れないようだ。
「見せるって、誰にだ? ……あの馬か?」
ジョニーがティムを振り返って言った。
違う、レイチェルだ、と言いかけたが何とか言葉を飲み込んだ。
「ああ、馬だ」
ジョニーは、こう言い切ったティムをしばらく見つめ、何を思ったのか急にケタケタと笑い始めた。
「とんだピエロだぜ……まぁいいさ」
ジョニーはそのまま客席の方を振り向きマイクを手に取り、
「こんばんは! ヒャは! みんな、今日は思う存分ファックしてくれ!」
その後にもう一度ありえないほどの大声で、ヒャは、とひきつけのような笑いをマイクにのせた。
ぱらぱらと席についていた客が呆気にとられ固まっているのが分かった。
サムも一瞬だけジョニーに目を向けたが、すぐに自分の作業に戻った。
ちょうど太陽が中天に昇ろうとしている時刻である。何がこんばんはなのか。ティムは自分でも訳がわからない焦燥を覚えていた。
いや、こんばんはなどこの際どうでもいい。
問題はレイチェルである。
ティムは客席をうかがう。
予想にたがわず、レイチェルと老人も目を点にして固まっている。
ジョニーがちらとティムを伺いながら、薄笑いを浮かべている。
ティムは睨み返した。
――俺のレイチェルに、ファックだのなんだのと下品な言葉を聞かせるんじゃない!
続けてマイクに向かって何かを口走ろうとするジョニー。
ティムは一度思いっきりバスドラを鳴らし、スネアとハイハットでリズムを取る。シンバルを派手に叩いたあと、その余韻を残したままタムまわしに入った。
出鼻をくじかれた形になったジョニーは口を閉ざし、ベースを鳴らす。サムのギターがかぶさってくる。なし崩し的にAからのスリーコードで音合わせになった。ジョニーは相変わらず薄笑いを浮かべている。
ティムの背中に冷たい汗が流れる。
そのまま、一曲目に入った。
『君の瞳に百万の薔薇を』というティムが作詞作曲したナンバーだ。一番のお気に入りでもある。
ドラムのタム回しから始まり、ギターとベースが入ってくる。JASTの中では異色のポップス調の曲だ。
行き交う人達が、足を止め呆然とステージを見上げている。おそらく物珍しいのだろう。ちらほらとではあるが、リズムに乗っている人も見受けられた。ジーパンに流行りのシャツ、サングラスをかけた若い女性達だ。
レイチェルに目を向けると、まだ呆然としてはいるが、始めよりも緊張は解けたように見えた。老人は相変わらず阿呆のようにぽっかりと口を開いたままである。
君の瞳に、百万の薔薇を、というサビの歌詞に入っていた。
ティムはレイチェルを見つめていた。
聞いてくれているかい? レイチェル。これは君にささげる歌だよ。
本当なら自分で歌いたい、と思ったがそれは我慢しておいた。キーが高すぎるのである。ジョニ―にしか歌えない領域だ。
レイチェルの隣で、馬は尻尾を振っている。
『神の奇跡』の後ろには相変わらず人が群がっていた。ステージには目を向けようともしていない。その存在にすら気づいていないようにも見受けられた。
今こそ、『世界の手数王』の実力を見せつける時だ。手数の多さで彼等の度肝を抜いてやる。ティムはそう考えてほくそえんだ。
曲の終盤、キーが半音上がる。
最後のサビが始まる。
ティムはレイチェルを伺った。
このメッセージを、受け取ってくれるかい?
君の瞳に、百万の……
そこまでは、なんの問題もなく聞き取れた。
しかし、「薔薇を」の部分にティムは違和感を覚えた。
ひょっとするとジョニーがアレンジを加えているのか? そうであれば許しがたい行為だ。
もう一度、サビが繰り返される。
その内容を理解した瞬間、ティムの怒りは心頭に発した。
「薔薇を」と言うべきところを、あろうことか、ジョニーは「駄馬を」と歌っているのだ。
君の瞳に、百万の駄馬を、
君の全てに、億万の駄馬を……
せっかくの素晴らしい歌詞が、台無しである。
と、ジョニーが突然ベースをかなぐり捨てて観客席の方へと飛び降りた。一瞬ざわついた聴衆であったが、ジョニーの周りに輪を描くように取り巻き、ジョニーが移動すると、その道を空けるように輪も移動していく。
――やりやがった。
ティムは舌打ちをしながらもさらに手数を増やした。
ベース音が消え去り、スカスカのバンド演奏を覆い尽くすように、もはや悲鳴とも言えるような破壊的なボーカルを繰り出すジョニ―。音割れが酷く歌詞すら聞き取れない。
サムのギターの音色が変わった。
歪み系のエフェクターを、オーバードライブからディストーションに切り替えたのだ。
さらに、ミュートを交えて十六分で刻み始めた。さながらスラッシュメタルだ。ティム一人、阿呆のように跳ねるリズムで叩き続けていた。
ジョニーがジョイ・ディヴィジョンのイアンのごとく、ひきつけを起こしたようなアクションで、レイチェルの方へと向かっている。
『神の奇跡』が首をぶるぶるっと震わせた瞬間、その隣にたどり着いたジョニーが、馬の横腹を軽く足蹴にした。
老人は慌てた様子で駆け寄ろうとしていたが、周りを取り囲む聴衆に邪魔され身動きが取れないようであった。
ティムは自分の額から、嫌な汗が流れてくるのを感じた。
サムの刻みも、ジョニーの嬌声も打ち消すような激しいドラミングを続けながら、その視線だけは馬とジョニーの方向に集中していた。
君の瞳に、百万の……
駄馬を、と歌った瞬間、ジョニーの体が宙に浮いた。
一瞬、時間が止まる。
取り巻き達も、老人も、レイチェルもただ呆然とジョニーを見つめていた。
ジョニーは軽やかに身を翻すと、馬の背中にまたがった。そして、その尻をマイクで打ち付けた。
甲高くいななく『神の奇跡』。体を震わせ、その前足を高く上げる。
取り巻いていた群集があっという間に散っていく。老人が駆け寄っていく。その手綱に手をかけようとした瞬間、馬が地面を蹴った。
ジョニーの体が宙に躍る。と、その瞬間にマイクを手放したジョニー。その手で手綱を握る。
ティムは手を止め、立ち上がった。
サムのギターの音も止まる。
ジョニーを乗せた『神の奇跡』は激しく体を上下させながら、他の何物をも寄せ付けない勢いで、走り去っていく。
その後姿を追っていく老人。必死の形相だ。しかしその速度は悲しいほどに遅い。50メートルほど先で、老人は転倒した。そのまま起き上がることが出来ず身悶えている。レイチェルが駆け寄っていく。
ティムはステージを跳び降りた。
すばやく辺りを見回す。
ライブの管理の人間を見つけ、無理矢理車を準備させた。
ティムの車は『神の奇跡』の消えた方角へ向かっていた。途中何度か通行人に「馬を見なかったか」という唐突な質問をしながら、その指差す方向へと車を走らせていた。
たまに全く逆の方向を指されることもあった。どちらかが間違っているのか、もしくは違う馬のことを言っているのか、ティムには判断できなかったが、その場合は勘を頼りにハンドルを切って進んでいく。
途中から証言の中に「二頭の馬が……」という言葉が増えてきていた。二頭ということは別の馬の可能性があったが、その特徴は恐ろしく『神の奇跡』に一致していた。また他には手がかりが無かったことから、その馬を『神の奇跡』であると断定して追跡を続けた。
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