第18話 第二章 ー10

 建物の中へと足を踏み入れ、アーチをくぐると、少し明るくなった。目の前が緑に覆われる。しっかりした石で組まれた枠組みに、水が溜められている。その泉の中央にはギリシャを思わせる人体像がほぼ等身大の大きさで設置されており、その右肩の水がめからは途切れることなく、水が流れ落ちている。


 不意に、奥の樹木がゆさゆさっと揺れる。と、次の瞬間には何か黒いものが夜空へと舞い上がっていく。


「何か飛んでいきましたね」


 アルは声をかけたが、男は無視して先を急ぐ。その足取りが、少し緊張を帯びているように感じられた。

 何度か角を曲がり、最奥へと足を踏み入れる。


「今回は特別だ」


 ぽつりと吐き出された言葉に、アルは首をひねる。


「くれぐれも、失礼のないように」


 男は言うと両開きの扉を軽くノックする。

 ゆっくりと、扉が開いていく。見た目に反して、機械仕掛けの自動ドアのようだ。しかし、そのことよりも、その部屋の中の様子にアルは目を見開いた。部屋全体がピンク色で、どこからか軽快なメロディーが流れてきている。


 アルは視線をぐるりと一周させる。ミッキーマウスから何かよく分からない架空の動物まで、大小さまざまな人形が敷きつめられている。その中でもアルの目をひいたのは、甲冑に身を包んだ、等身大の男の像であった。その額から流れる汗まで再現されており、今まで見たどんな像よりもリアルだった。


 と、その瞬間、甲冑の置物の首が回り、その視線がアルに向く。アルの心臓が一瞬鼓動を早める。


「だめ、動いちゃ!」


 甲高い、少女の声だった。

 アルは声の方向へと顔を向ける。

 ソファーから、ゆっくりと立ち上がったその少女は、甲冑の方へと視線を向ける。ソファー自体は視界に入っていたが、そこに人がいることは気づかなかった。埋もれて見えなかったのかもしれない。


「ですが、お嬢様……」


「しっ!」


 少女は甲冑に向かってこれでもかと言うほど顔をしかめている。甲冑は首をふりながら引き下がった。やれやれ、といった表情をしている。


「甲冑だけは人間だったんですね」


 アルが言うと、少女は振り返り満面の笑みを見せた。


「こんばんは、アルさん。……えっ、と、初めまして、ベロニカです」


「初めまして……」


 甲冑の男の「お嬢様」というセリフからすると、この少女はここではかなり身分の高い人間であるようだ。とすれば、アルに課題を出すのも、この少女、ベロニカなのだろう。

 少女はちらと甲冑の方に目を向けて、


「あたしはイヤだって言ったんだけどぉ、パパがどうしてもって」


「お嬢様の安全のために……」


 口を開いた甲冑をぎろりと睨みつけるベロニカ。

 甲冑はびくりと体を震わせ、口をつぐむ。


「だってほら」ベロニカは急に笑顔を見せ、辺りを手と視線で示しながら「こんなカワイイ部屋に……こんな、」と、そこまで言うと今度は親のカタキに対するような表情で甲冑を睨みつけ「こんな、むさいおっさんがいるなんて、似合わないでしょう?」

 ねぇそうでしょう? とアルに目で訴えかけてくる。


「……むさいだなんて……お嬢様ヒドイ……」


 甲冑の男は呟くが、聞こえていないのかベロニカはアルを見つめ続けていた。

 アルはちらとだけ甲冑に目を向け、


「そう、ですね」


 ベロニカは笑いながらぴょんっと飛び跳ねる。

 ほらほら、やっぱりそうなんだ、でね、それでね、とベロニカは無邪気にアルに近づいてくる。


「ムカついたから、甲冑にしちゃった」


 言うとゲラゲラと笑い始めるベロニカ。


「……暑いんですよ、これ」


 甲冑は憔悴したような表情で、呟く。

 ベロニカの父親はこのWRTでの何らかの権力を握っている人間であり、ベロニカを守るため部屋には護衛をつけたい。しかし、ベロニカとしては部屋には入れたくない。それで双方の折衷案として、甲冑を着て部屋のオブジェの一つになってもらうことにしたのだろう。これで普段はただの置物として、そして何か不測の事態があったときは護衛として働いてもらう。と、大方そんなところであろう。


 アルが甲冑に目を向けると、男は疲れ果てた様子で目を地面に落としている。

ある意味では、親子喧嘩のとばっちりで一日中甲冑に身を包まなければならなくなったのだ。もう勘弁してくれ、という気持ちかもしれない。


「お嬢様」


 背後から、声がした。

 アルは忘れかけていたが、まだ二人の案内人は部屋の中で待機していたのだ。


「ああ、あなた達はもういいわよ、ご苦労様」


 ベロニカは手をふり、そっけなくあしらう。

 案内の男二人は一礼して部屋を出て行く。

 背後で、扉が閉まる音がした。


「ふふ」


 ベロニカが薄く微笑みながら、アルの方へと足を進める。スカートの裾がひらひらとはためく。ベロニカは立ち止まりアルを見上げる。


「ついに二人っきりね」


「お、お嬢様!」


 甲冑が今にも飛び掛ってきそうな勢いで振り向いた。しかし、鎧の重さのためかその動きはおそろしく愚鈍で、有事の時には役に立ちそうにない。どちらかと言えば……

 アルが考えているうちにベロニカがぴたりと体を寄せてきた。


「最近むさいおっさんばっかりで、辟易していたのよ」


 どちらかと言えば、甲冑はこのベロニカを監視しているのだろう。

 アルはベロニカに目を向けた。ベロニカもアルを見つめ、すっと目を閉じた。おそろしく自然な仕草だった。むしろ自然すぎて不自然に思えるほどだった。


 甲冑の男が何事かを口にしながら必死でこちらに近づこうとしているが、どうにもうまく足を運べないようであった。

 香水の匂いがアルの鼻をついた。その口元や目じりには意外にも小さな皺が刻まれている。化粧によって少女に見えてはいたが、実際はおそらくアルと同年代、二十代半ばであろう。


 そのとき、甲高い金属音と共に地響きが轟く。その瞬間、アルは思わずベロニカを引き剥がした。ベロニカも目を開け、振り返る。

 甲冑の男が倒れていた。うつ伏せだった。手足をもぞもぞと動かして何とか立ち上がらんとしているようだったが、状況は何も変わっていない。


「まったく、お父様は一体何を考えているのかしら!」


 地面にはいつくばっている男が何事かを言っているようであったが、


「シャーラップ! 黙りなさい!」


 ベロニカは叫ぶと、アルを振り返る。


「こんなことじゃあ、護衛の意味がないじゃない……ねぇ」


「そうですね……」


 それ以前に、ベロニカの監視役としても心もとない。

 ベロニカは「付いて来て」と言うと、そのまま扉へと向かう。

 アルはその後ろについて扉をくぐる。


「いいんですか? あの甲冑の人、あのままで……」


「自業自得よ」


 さらりと言ってのけるベロニカ。

 アルは口を閉ざし、ただ付いて歩くことにした。

 ベロニカは泉のある中庭に入っていく。慣れた手つきで周囲の草木をかき分けながら、ずんずんと奥の方へと分け入っていく。

 と、ぽっかりと開けた空間に、座椅子が一つ。さらに、左右の木々からは白い網がぶら下がっており、ちょうどハンモックのようになっている。


「さ、座って」


 ハンモックに腰をおろしたベロニカは、アルを座椅子へと導いた。


「ここなら、しばらくは落ち着いて話せるわ」


「しばらく?」


「そ、しばらく、ね」


 ベロニカの表情が一瞬曇った。そのときだけ幼さが抜けたような気がした。

 アルは極力表情を変えずに訊いた。


「課題のことについて……スティーブ氏から聞いてますよね?」


「ああ、そのことね」


 ベロニカはきゅっと口を引き締めると、


「これは、言っちゃいけないってことになってるんだけど、あなただけには教えてあげるわ……今、兄とあるゲームをしているの」


「ゲーム? どんなゲームなんですか?」


「それは」一瞬考える仕草をしたベロニカは指を立て「ヒミツ」


「……そうですか、残念です」


 アルは微笑み、先を促す。


「内容は言えないけど、五年前からそのゲームは続いているの」


 五年間決着のつかないゲームなど、この世に存在するのだろうか。アルは逡巡するが、思いつかない。


「ま、そのゲームのことはいいの。そんな大したことじゃあないから……あたしが言いたいのは、その賞品のことなの。で、今回あなたにやってもらいたいことも、その賞品に関係があるの……関係がある、というより、その賞品を捕って来てほしいの」


「話が、見えないんですが……」


「『神の奇跡』って聞いたことある?」


 アルは首を振る。


「五年前のあの日、あたしと兄がお忍びでウランバートルまで赴いたの。そこで世にも美しい馬を見つけたの」


「馬、ですか」


「そう、でも馬と言ってもそんじゃそこらの馬とは次元が違うわ。後で聞いた話だと、地元では『神の奇跡』と謳われているらしいの」


「『神の奇跡』……ね」


 馬には全く興味を持てないアルにとっては、その価値など理解できるはずもない。


「あたしも兄も、その場でその馬をどうしても手に入れたくなった。今思えば、あの時の感覚は恋に似ていたような気がするの」


 風にあおられ、ベロニカが座るハンモックが揺れる。ベロニカはその揺れを楽しむようにさらに自ら揺らしながら、


「その時、兄はあるゲームを提案したの、そのゲームに買った方が、馬を所有することができる、と」


「そして、そのゲームが5年経っても終わらない、ということですか」


「そうよ。初めはあたしにものすごく有利な条件だったの、ハンデとしてね。だけど、今は五分五分ってところかしらね……と、こんな話はどうでもいいの!」


 ベロニカは大きく首を振る。


「とにかく……あたしの話、分かった?」


 アルは苦笑しながら、頷いた。

 つまり、五年経ってゲームが終わらない以前に、その賞品である馬も手に入れていない。そこで、アルにはその馬を捕って来て欲しいということだ。


「そのぐらい、権力でどうにでもなるんじゃないですか?」


 こんなどこの誰とも素性の分からない人間に頼むようなことではない。これほどの街の有力者なら経済力もあるはずなのだ。

 ベロニカは首を振ると、


「だめよ、そんな力にモノを言わせて人の馬を奪うなんて。……だから、あなたには平和的に、友好的に相手が馬をこちらに譲渡するという形で手に入れてもらいたいの。言っておくけど、お金では無理よ」


「それは、そうでしょうね」


 金で解決する問題なら、これほど簡単なことはない。しかし、それが無理だということはその『神の奇跡』の持ち主がその馬を商品としてではなく、自分の家族として見ている、ということだ。それを奪おうというのだ。友好的解決などハナからありえない。


「友好的にこちらに譲渡するという『形』があれば、いいんですね?」


 アルが尋ねる。

 友好的に譲渡してもらう、という事と、友好的に譲渡するという形で手に入れる、ということは似て非なるものだ。

 ベロニカは片眉を吊り上げ首をかしげている。


「あ、いや、別に深く考えないでください。大体の事情は分かりましたので、あとは細かい状況を説明していただければすぐにでも仕事にかかります」


「仕事に、って……ちょっとぐらい迷うとか、ないのね」


 あきれたようにアルを見つめるベロニカ。

 アルは座椅子から一度立ち上がり、伸びをした。


「私には他に選択肢がないんですよ」


「ふぅー……ん。……変わったヒトね、あなた」


 ベロニカはじっとアルを見つめている。

 アルは座椅子に座りなおし、言った。


「よく、言われますよ」


 ベロニカがさらに話を切り出そうとした瞬間、その背後の藪の中から破砕音が響いてきた。枝が折れる音だ。明らかに自然現象ではない。ベロニカも気付いたようで、音の方角へと目をやり、


「誰!?」


 いきなり叫ぶとは予想していなかったアルは、瞬時にベロニカの前へと躍り出た。


「ここにいてください」


 アルはベロニカにそれだけ言い残すと、迷わずに茂みの中へと身をもぐらせる。ここへ来る途中で案内人が口にした「侵入者」という言葉が脳裏によみがえってきた。

 草木をかき分ける遠慮のない音が前方から聞こえてくる。相当に焦っているように感じられる。ふと、足元にある何かを見つけたアルは立ち止まる。侵入者の忘れ物のようだ。それを持っていく余裕さえなかったのだろう。アルはそのかばんを手に取り、目の高さまで持ち上げた。


「……これは」


 どうするべきか、一瞬だけ逡巡した。

 今これを持って追うべきか、それともこの場はこのまま見つからなかったことにして去るか。


 アルはしばらく前方を見つめていたが、背後からのベロニカの声にちらとだけ振り返った。どうやら待ちきれなくなったらしい。自分で侵入者を追う、と言いかねない。


「ちょっと奥まで行ってきますから、絶対にその場を離れないように」


 アルが少し声を張ると、ベロニカの歩みが止まったようであった。

 すぐに前方へと視線を戻したアルは、かばんを肩にかけ前進を開始した。

 少し進むと、サムの後姿が目に入った。

 なぜサムがここにいるのか、どうやってWRTに侵入したのか、それは分からないが今は逡巡しているときではない。

 アルはかばんをサムの足元に落とした。

 下手にこちらに近寄って来られても困る、と判断したアルは、顔を見られないように声色を変えて、「逃げろ」と言った。

 サムを逃がしたあと、ベロニカの元へと戻ると部屋で甲冑に身を包んでいた男が困ったような、それでいて怒っているような何ともいえない表情で控えていた。甲冑は既に脱いでいる。

 ベロニカは舌を出し、アルに笑みを見せる。

 アルは元甲冑の男に視線を向け、言った。


「どうやら、猫か何か、動物だったようですよ。特に異常は見つかりませんでした」

 


 しばらくはWRTに留まる必要があるため、ベロニカの住む屋敷の一室を借りることとなった。屋敷内の行動は基本的に自由であるが、外出は禁止された。その代わり、付き人を一人あてがわれた。何か用があれば、その男に頼むように、ということであった。


 食事は一日三度、必ず決まった時間に大食堂で、ベロニカ、アル、甲冑の男の三人でとることとなった。アルは食事を済ませると先に席を立つことが多かった。


「あなたが来てから、お嬢様の顔色がいいんですよ。やっぱり、若い人同士の方が楽しいんでしょうね」


 甲冑の男が、ある時こう言った。

 特に何か喜ばれるようなことをした覚えのなかったアルであったが、一応の社交辞令として、私も楽しんでいますよ、と答えておいた。

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