第26話 第三章 ー3

 帰国してからの経過時間がティムには分からなくなっていた。その間で酒を飲んでいない時がどれほどあったのかを思い出そうとしたが、すぐに止めた。

 ふっと、自分が今どこにいるのかも分からなくなり、顔を上げた。いつもの居酒屋だということを確認し、安心したティムは目の前の琥珀色の液体を、喉の奥に流し込む。一瞬の間をあけて、ぼぅと胃の奥が熱くなる。


「おい、ティムよう。昨日の話はどうなったんだよぅ」


 どすの利いた男の声が聞こえた。いつの間にティムの隣に座っていたのか、彼は覚えていなかった。つい一寸前のことのようにも感じるが、ひょっとしたら最初から一緒に呑んでいたのかもしれない。そもそも、この男が何者なのか分からない。


「ああ」


 鈍い思考をめぐらせるが、男の言う『昨日の話』には何の心当たりも無い。

 ティムは一度靴を脱ぎ、靴下の上から、何度か足を平手で叩いた。痒みを和らげるために始めた行動であるが、いつからか癖になってしまっていた。


「まぁいいさ、……ところで、昨日のことは覚えてるか? 大変だったんだぜ」


「あん?」


「……あん? じゃねぇよ」


 この男が言うところによれば、ティムは昨晩呑みすぎて前後不覚に陥り、この居酒屋を出たところで倒れていたらしい。そしてこの男が家まで連れて行ったということだ。もちろんティムは覚えていない。

 今日は夕方頃に目を覚ましたが、しっかり着替えてもいたので自分の足で帰ったものだとばかり思っていた。そして、そのまま常備しているジャックダニエルを一杯引っかけてすぐこの店に来たのだ。


「世界の手数王の話からだっけ?」


「それはもう聞いた。ジョニーが歌詞を勝手に変えたって所からだ」


 ジョニー、というフレーズが耳に入ってきた瞬間、ティムは胃のむかつきを覚えた。脳味噌が、すーっと冷えていく感覚。

 帰国してからバンドとの連絡を絶ち、ひたすら酒びたりの生活を続けていたティムであったが、家まで押しかけてきたサムとジョニーを拒絶することは出来なかった。それが、ちょうど一週間ほど前のことである。

『それならウランバートルへ』がかなりの売れ行きであるということも、そのときに聞いたが、今のティムにとってはどうでもいいことであった。


 結局、帰国後初めてのスタジオ練習の日程調整だけを行うと、満足したのかサムとジョニーは帰っていった。その練習日は明日に迫っていた。

 ティム自身、バンド活動をやりたくない、というわけではない。とは言え、『世界の手数王』としてティムの名がロックの歴史に刻まれることはもはや間違いのない事実ではある。無理をしてバンド活動をするなど、愚かしいことだ。バンドなどしなくても、世界はティムを知っているのだ。


 歴史に名を残しているロックミュージシャン達を見ても明らかなように、伝説となるためには、酒に浸り自らの本能を存分に解放してやる時期が必要なのである。つまり、今こうして酒を飲んでいることも、ティムの伝説の一ページになっていくのである。


「おい、聞いてるのか? もうジョニーのことはいいからよ。あの例の女の子の話をしてくれよ。何て名前だっけ?」


 ――レイチェル。


 その名前が脳裏をよぎった瞬間、ティムは思わず頭を抱え込んだ。

 帰国してからの行動がフラッシュバックしてくる。酒びたりの生活に入ったのも、レイチェルのことが原因であったような気がしてくる。

 そして時を経て、なぜそこまで毎日、ただひたすらアルコールを摂取しているのかもよく分からなくなってきた頃に、彼はそれを自らの伝説の一ページであるという究極の結論に至ったのであった。


「おい」


 ティムは顔を上げる。視界がぐらぐらとふらついている。目の前には男がいるはずであるが、全く現実味が無い。

 おい、聞いているのか? という男の声がどこか遠くから聞こえた。


「ああ」


「ああ、じゃねぇよ。まぁいいさ。今日はもうお前さんも話せる状態じゃないみたいだからよ。俺の話をさせてもらおうかい」


 その後少し間があり、男が近づいてきたようであった。


「実はよ、今日はお前さんに、いい話を持ってきてやったんだよ。ただし、誰にも言うんじゃねぇぞ。これは現在共産圏で極秘に開発されている植物なんだけどよ」


 そういうと、男はポケットから一瞬だけ、袋のようなものを取り出し、すぐにしまいこんだ。


「俗に言う『切れる草』って知ってるかい? それ自体はやわらかいけど、その端の部分を不用意に手で触るとすっぱりと切れてしまう、あれだよ。で、これはよ、あれの亜種のタネなんだ。長年の研究の成果でさらに切れ味を増し、そして引張強度を増した草が出来上がった。どんな固いものでも一刀両断、そしてどんな怪力が引っ張ってもちぎれないときたもんだ」


「ほぉ」


 男がいったい何の話をしているのか、ティムには理解できていなかったが、それでもティムは顎に手を当て、頷いていた。


「おっと、その顔は分かった、って表情だな。こいつの使い道は、おそらくお前さんの予想通り、航空機ハイジャックさ」


 ティムはさらに大きく頷き、


「ああ、やっぱり。思ったとおりだ」と言った。


 男は、さすがティム、と呟きながらにやりと笑みを浮かべている。


「従来の刃物だと、金属探知機に引っかかってしまう。しかし、この草はその問題を一気に解決したってわけだ。知らないだろうが、今裏の世界ではものすごい数の引き合いがきているんだぜ」


「ほぉ」


「それで、生産が全く追いついていない状態なんだ。何しろ栽培が非常に難しい植物でな。ちょっとした環境の変化でころっとくたばっちまう。研究者達が最も頭を悩ませたのもその部分でな。色々試してみたらしいぜ。それで、一つの結論を出した。こいつの――仮に植物Xとしておくが、この植物Xの栽培に最も適した環境は日本の瀬戸内海である、ということだ」


「瀬戸内海?」


「そうだ、だからこそ、日本人である俺に話が回ってきたってことだ。俺だって人の子だ。本当なら一人で栽培して一人で売りさばきたいさ。何せ、莫大な利益が出ることは分かりきっているんだからな。だがそうもいかなくてな。あいにく商売柄、ずっと瀬戸内海近郊にいるってわけにもいかねぇんだ。何せ取引相手は海外の人間が多い。必然的に日本を離れることが多くなるんだ。それに時には急遽数ヶ月間向こうで過ごさざるを得なくなるってこともある。だから苦渋の決断だったが、栽培を人に託すことにした」


「それが、俺ってわけかい?」


「そうだ、で、まぁとりあえず今はサンプル程度の量しか持ってないから、明日夜、ここで……」


 そういうと、男は小さなメモをティムに握らせた。

 ティムはそのままポケットに突っ込む。


「で、まぁこれはただの手続き上の問題だけなんで、たいしたことじゃあないんだけどよ。まずお前さんにはタネを現金で買い取ってもらうということにしたい。誤解するなよ。信用していないと言うわけじゃあないぜ。ただ、この業界ではそういう風になっているから、まぁそれに則っておくか、ってだけだからよ。用意して欲しい金額もさっきのメモに書いておいたから」


 男はそれだけ言い終わるとおもむろに立ち上がり、


「それじゃあ、また明日、その場所で」


 とだけ言って去っていった。

 ティムはその後姿をぼんやりと見送った後、自分のテーブルに目を戻した。

 飲みかけのウイスキーを一気に空けると、席を立つ。

 結局、男が何を言っていたのか、ティムにはさっぱり理解できていなかった。

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