第13話 第二章 ー5
ティムが帰ってきた次の日の朝、サムが仕事に誘うと、「風邪をひいたから仕事は休む」と答えゲルから出てこなかった。原因は風邪でないことは明確であったが、サムはそのことに触れずにジョニーと二人で工場に赴いた。
レイチェルという少女から事態を聞いていたからまだ良かった。心の準備が出来ていたことで笑いをこらえることが出来たのだ。
サムは工場の単純作業を続けている間、様々なことに思いをめぐらせていた。
モンゴルに来てから数回バンド練習らしきことはやったものの、設備もままならない環境ではお茶をにごす程度でしかない。さらにアルは姿を消してからいまだに音沙汰がなく、ティムに至ってはあのていたらくだ。
レイチェルという少女はどうひいき目に見ても十五歳かそこらにしか思えない。ティムは自分の年齢を考えているのだろうか。バンドを始めた当初はこともあろうかサムの恋人であるクリスチーナに色目を使っていたこともある。いったい何を考えてそのような愚行を繰り返すのか、サムには理解できなかった。一度頭蓋骨を取り外して脳味噌の洗浄を行ったほうがよい。
サムはそこで手を止め、大きく息をつく。
さしあたっては二週間後にライブがある。何とかそれまでに形を作らなければならない。幸い曲自体は完成しており、その練習も日本国内では十分に行ってきた。最悪当日全員が揃えば何とかなる、とサムは楽観的に考えていた。さすがにそのときまでにはアルも顔を出すに違いない。
「手が止まってるぞ」
不意に後ろから声がかかり、サムは振り返る。
「ジャックさん……あ、すいません」
慌てて視線を手許に戻す。いつの間にか検品待ち製品がサムの前で滞っている。
ジャックは軽く笑いながら、
「まぁそう固くなるなって。どうせほとんど不良品なんかねぇんだからよ。……まったく、たいした会社だぜ、『株式会社IWASHI』ってのはよ」
「そんなに凄いですか」
「ああ、……ま、日本じゃあこれが標準なのかもしれんがな」
ジャックは鼻の下の髭を手でさすりながら、口の端で小さく笑みを形作った。
サムは作業を続けながら小声で言う。
「あの、例の件なんですけど……」
ジャック・Bとはゲル部落で知り合った。偶然ではあるがこの工場で勤務しており、その後何度か飲みに行ったときに、ある秘密についての打ち明け話を聞いた。それが本当ならばサムのこれまでの価値観を覆すほどの事実だ。
「今夜、いつもの居酒屋で」
ジャックは無表情でそれだけ口にすると、持ち場に戻っていった。
ジョニーを誘うかどうか一瞬だけ逡巡したサムであったが、結局は一人で行くことにした。一から説明するのがどうにも面倒だったのである。
仕事を終え一度ゲルに戻ったサムは、急いで荷造りを済ませすぐにゲル部落を後にした。ひょっとしたら今夜は戻れないかもしれない、という期待とも不安ともつかない思いを抱きながら、ひっそりとした住宅街を抜ける。
ジャックの言う「いつもの居酒屋」は日本人が建てた、という話であった。ソ連人の手による建造物よりも圧倒的に質がいい、とジャックは漏らしていた。
ウランバートルの市街地を少し抜けたところにぽつんと佇むコンクリートの直方体。屋上に申し訳程度にモンゴル文字で記された店名の看板が掲げられている。
サムは正面玄関をくぐる。
一瞬、見間違いかと思ったが、すぐにそうではないことを悟る。あろうことかティムが奥のカウンターでくだを巻いているのである。店長に何やら訳知り顔で語っているが、聞いている方はあからさまに迷惑げな表情をしている。その様子から察するとかなり泥酔しているのだろう。
「……何をやってんだ、あいつは」
思わず呟いたサムであったが、すぐに視線を移す。
いつものテーブルで飲み食いするジャックを確認し、そちらへ足を運ぶ。
と、数人の男と共に酒を酌み交わしていたジャックは彼らに暇を告げサムを振り返る。外へ、というジェスチャーを見せた。
店を出てしばらくジャックの後ろをついて歩く。
「何か邪魔したみたいで……」
すいません、と言いかけたサムに、ジャックは笑顔を見せ、
「準備はいいか?」
「準備……ですか?」
「心の、な」
言うと、どんっとサムの胸を叩きそのまま背を向け歩き始めた。
古めかしい電灯が一定間隔で並ぶ大通りを一歩外れると、薄暗い路地となっていた。二人のほかには誰もいない。
ジャックは脇に停めてある黒く無骨な車へと足を進め、
「本当は日本製がよかったんだが」
と呟きながらドアを開ける。
サムが助手席に乗り込みドアを閉めた瞬間、エンジン音と同時に車が発進する。一度Uターンすると一気に加速した。
サムが口を開こうとした瞬間、ジャックがさらに大きくハンドルを切る。
サムの体が重力でドア側に傾く。
「普通なら、3時間以上かかる」
ジャックはぽつりと吐き出す。
サムが振り向くと、前を見つめハンドルを握ったまま、
「だが俺なら、1時間だ」
ジャックがそう言った瞬間、サムは座席に押し付けられたような圧力を感じた。ちょうど飛行機の離陸時のような感覚だ。運転席のスピードメーターにちらと目をやる。数値は180を超えている。そのまま急上昇を続け、すぐに針が振り切れた。
「ちょっと、大丈夫なんですか?」
サムが言うとジャックはにやりと不敵に笑みを浮かべ、
「大丈夫だ……エンジン部分は日本製に代えてある」
車体から軋み音が聞こえてくる。たまに大きな揺れを感じヒヤリとする場面が幾度となく繰り返された。
「エンジン部分だけ、ですか……」
丸裸でエクスカリバーを携え一人で敵陣に突っ込む哀れな男、それが今の自分達の状況だ。危険極まりない。
しばらくは前だけを見つめていたサムであったが、ふと気づくと見渡す限り何もない荒れ地に出ていた。その中で一本だけ道が通っている。
「この道も公にはされていない。どの地図にも載っていないんだよ」
「これだけの道が、ですか?」
ティムは獣道のようなものを予想していたのだが、現実にはかなり整備されている。日本の国道と大差ないように見えた。もっとも、そのぐらいでなければ今のスピードでは間違いなく転倒しているはずだ。
「もちろん、見た人はいるだろう。ここにこういう道があるということを知っている人も。だが、公にするとなると、何らかメディアを経由する必要がある。そうなると話はまったく別だ」
ジャックは言うと、無表情でしばらく前を見つめていた。
ウランバートルから南へ150キロほど下ったあたりに、地図には無い都市が存在する、とジャックは言う。地図上ではゾーンモドとマンダルゴビの中間、ちょうど中央県とドントゴビ県の境あたりだ。もっとも、実際には公開されていないためその詳細な場所は誰にも分からない。
果てしなく続く暗闇の中、平坦な舗装道路が続いている。
それはある種夢の中のような光景で、数十分のことだったのか、それとも一時間ほど経ったのかサムには判断できなかった。
少しずつ速度が落ちてくる。メーターに目をやると、100キロを切っている。さらに減速を続け、40キロまで落ちた。
「で、ここで道がなくなる」
というジャックの言葉とほぼ同時に、突然車体が揺れ始めた。草原に直接乗り入れたようだ。車はさらに減速する。
「ウランバートルで噂を聞いたことはないか?」
「どんな噂ですか?」
「この道の、さ。……まぁ都市伝説としてかなり尾ひれがついていると思うが」
都市伝説、と言えば、ウエスタンローゼスのことばかりだった。
ウエスタンローゼスがやってくる。
やつらが現れる。
空から降ってくる、地面から生えてくる。
嘘をつくと、やつらに連れ去られる。
ジャックによればその都市自体がウエスタンローゼスにより建設され今はその居住地となっている、とのことだった。
ではウエスタンローゼスとは一体何なのか、民族の名なのかそれとも国なのか、それとも秘密結社的な組織の名前なのか、サムは尋ねたがその詳細は分からないらしい。モンゴルの一般市民の間ではただのおとぎ話として認知されているようであった。
「そういえば」サムは口を開く「ウエスタンローゼスの噂に、『南の方からやってくる』というのを聞いたことがあります。あと、『ゴビ砂漠からやってくる』とか」
ジャックはしばらく押し黙っていた。
視界の隅に光を感じたサムは、その方向に目をやる。
ぼんやりとはしているが確かに、明かりが見える。それもかなりの数だった。そこが近代的な都市を形成していることは間違いない。
「信じられない……」
サムが呆気にとられて目の前の光景を見つめていると、
「……西の方からやってくる、というのは無かったか? ……いや、まぁいいが」
ジャックが独り言のように口にした。
サムは少し首をかしげただけで、前方に目を戻した。
車内にはしばらく沈黙が落ちていた。
だんだんと眼前に迫ってくる異様な光景に、サムはただ驚愕するしかなかった。
万里の長城のような果てしなく続く塀を挟んだその向こう側は、まるで昼間のような明度で光り輝いている。
近代的なビル群のすぐ背後には、見たことのない石造りの建築物が林立している。青を基調にしているが、所々色が禿げかけている。
サムの記憶にあるどの国の風景とも異なっていた。強いて言えば、未来都市だ、とサムは感じた。未来都市が、そのまま数百年の時を経て遺跡になったような印象だ。
サムが万里の長城のようだ、と感じたその塀から少し距離をあけた位置で車を停めたジャックは、サムに外へ、と促す。
塀には一箇所門が見られたが、その左右には武装していると思われる門番も数人控えている。まさか正面から堂々と侵入するということはないだろう。
「この街は四方を塀で囲まれている。そして空路も陸路も満足には使えない」
「確かに、電車も走っていないですし、それよりも、外への道すらないですね」
「そうだ、近代都市として発達するためには何とかして外と流通を図らねばならない。となると」
ジャックはそこまで言うと、ゆっくりと地面を指差し笑みを浮かべた。
「地下、ですか」
サムが答えると、ジャックはその表情から笑みを消し去り真っ直ぐに目を見つめてきた。
サムの心臓が高鳴る。
しばらくの間バンド活動は休止ということになってしまうかもしれない。ジョニーには事後承諾してもらうしかない。
ふと、日本での生活が脳裏をよぎった。
公務員として職務を全うしようとしている父親。
よき妻として立派に責を果たしている母親。
そんな二人に何不自由なく育てられ大学へも送ってもらった自分は、結局くだらないアルバイトで生計を立てながら売れない音楽活動を続け、そして、毎日薄汚れた6畳間でひたすら壁を見つめるだけの生活を続けている。
そこで思考を中断する。
ジャックがこちらを見つめている。
大学時代、工学部に所属しながら周りとの関わりを絶ち、図書館にこもってひたすら哲学書を読み漁った。プラトンにデカルト、ヴィトゲンシュタイン、ニーチェ、物理学者の唱える宇宙の人間原理。
そしてさらに世間からの距離を広げていったサムにとって、周りの人間はすべからく愚民であった。神とは一体何なのか? 何のために人はあるのか? そんな問いを考えることすらしない彼らに生きる価値など無いと考えていた。
サムがそうして忌み嫌い、蔑み嘲笑してきた愚民達は大学を卒業後、難なく就職して悠々とした生活を手に入れていた。結局、サムだけがあの頃のまま何も変わらず、ただ薄汚れていくだけだった。
「それでは、行きましょう」
サムが言うと、ジャックはにやりと笑みを見せ、どんっ、とサムの胸を叩いた。そのまま背を向け歩き出す。
サムは顔をしかめながら胸をさする。
「あの、もう少しソフトにお願いします」
サムが言うと、ジャックは振り返らないまま言った。
「何を頼りないことを言ってるんだ。大丈夫だろ。日本製なんだから」
意味が分からなかった。
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