第12話 第二章 ー4

 スポンジ状の正方形に、枝のように手足が伸びる。三又の槍を握り締めたその生き物は、太鼓のリズムに合わせ器用に踊っている。こちらを振り向いた瞬間、それはただの「足」に変貌した。


 ティムの目の前でその白い「足」は、ずしっ、ずしっ、と指数関数的に膨れ上がっていく。空間が「足」に満たされ、次第に呼吸がおぼつかなくなってくる。ティムはただ、なすがまま埋め尽くされていった。

 ふっ、と意識が戻る。あたり一面に広がる巨大な白い足。その皮膚が風船のように膨れ上がっていく。


 と、遥かかなたで、パチンという何かがはじける音がした。ティムが音の方向に視線をやると、次から次へと風船たちが弾け飛んでいき、その流れはティムの方へと向かってくる。四方八方から耳をつんざくような音が迫ってくる。


 弾けた後の残骸からは、どろどろと粘着質の赤い液体が滲み出している。

 視界が赤黒く染まっていく。

 ティムは声を上げようともがくが、意に反して一滴の音も発することが出来ない。どこかで耳障りな金属音が響いている。あっという間にティムの耳元で鳴り始める。音は徐々に声に変化しそれが自分のものであると気づいた瞬間に、ティムは目を覚ました。


「水くみ」


 それが自分のセリフだと気づくまでに、一瞬の猶予があった。


「水くみ? 何のことだ……」


 誰もいない空間に向かって呟きながら、ティムは辺りをうかがう。


 どうやらゲルの内部にいることは間違いないのだが、いつものゲルではない。見覚えの無い家具や食器が並んでいることもあるが、何より臭いが違う。いつもはただの悪臭だったが、今は鼻を突く生物臭に混じってほんのりと甘い香りが漂っている。


 少しずつ意識がはっきりしていく。


 と、表から馬のいななきが聞こえてきた。その後、男が何かを叫ぶ声。


 ティムは腰を上げ入り口に向かう。ゲルの外に顔を出し、そっと覗く。


 一人の老人が、二人の男と口論をしているようだ。その老人の手に握られた手綱の先には巨大な馬がつながれている。馬が一瞬自分の方に視線を向けた気がして、ティムの心臓が跳ね上がる。脳裏に意識を失う直前の記憶がフラッシュバックしてきた。真っ黒な蹄だ。


 突然、ばしゃん、という何かをひっくり返したような音が聞こえた。ティムは振り向く。黒く濡れた地面に鉄製の寸胴な桶が転がっている。そしてその側に立ち尽くすレイチェルの姿を認めたティムは、思わず立ち上がった。


 レイチェルは、

「おじいちゃん!」と叫びながら老人の方へ駆け寄っていく。

 男二人がレイチェルを振り向くのとほぼ同時に、老人の「来るな」という叫びが荒野に響き渡った。離れているティムですら思わず目を閉じてしまうほどの、脳髄にまで届く野太い声だった。


 レイチェルはちょうどティムと老人の中間地点辺りで立ち止まり少し後ずさる。

 ティムはゲルを出た。一度髪をかきあげ、レイチェルの方へとゆっくり歩を進める。

 レイチェルが振り返った。視線が絡む。


「大丈夫だよ、レイチェル。僕がついているじゃないか」


「あ、気がついたんですね、足の人」


 足の人、と言ってから、口に手を当てるレイチェル。

 足の人、という発言に一瞬戸惑うティム。工場で「足は痒くないから大丈夫」とわけの分からないことを口にしてしまったのだ。名前も教えていなかったため、便宜的に足の人としていたのだろう。ヒドい失態だ。ティムは舌打ちする。


 それでも顔を赤らめ下を向くレイチェルを見ると、そんな些細なことはどうでも良くなってくる。


「おお、気がつきおったか、足の人」


 遠くから、老人が叫びかけてきた。


「なに、足の人だと、何のつもりだ!」


「何のつもりでやんすか! 足の人」


 老人と口論していた二人の男も口々に叫ぶ。

 何故か二人の男の矛先はティムの方に向いている。

 誤解だ、自分は何も知らない、と両手を挙げかけたティムであったが、眉をひそめ立ち尽くすレイチェルの姿を見て決断した。心臓が高鳴る。ティムはレイチェルに歩み寄り、そっと肩に手をおいた。レイチェルはびくりと体を震わせ、ゆっくりとティムの手を払いのけた。ティムから視線をそらして一歩下がる。恥ずかしがっているに違いない。

 ティムは行き場のなくなった手を髪にあて一度かきあげた。

 レイチェルの前に進み出て、男二人を見据える。


「僕のレイチェルに何をするんだ」


 ティムの声が禿げた草原に響き渡る。

 少しうわずった。

 背後のレイチェルは分からないが、老人と男二人はその場に立ち尽くしている。どう対処していいのか分からない、と言った表情だ。明らかに困惑している。老人が困っているのは不可解だが、いずれにしても男二人は明らかに次の手を考えあぐねている様子だ。ティムの思惑は完全に成功と言わざるを得ない。

 これはいける、と判断したティムが胸をそらして男二人の方へと足を向けた。

 二人のうち長身の男は少し後ずさりながら、


「誰だ、何者だ、足の人!」


 だから足の人だ、と言いそうになってしまったが、すんでのところで言葉を飲み込んだ。

 ティムはその場に立ち止まり髪をかきあげた。ゆっくりと息を吸い込み、言った。


「日本の手数王、改め、今は『世界の手数王』だ」


 長身の男が驚愕に目を見開く。

 もう一人の小柄な男も口を開けたまましばらく呆然としていたが、何とか自分を叱咤したのか眉を寄せた。


「何が何だかさっぱり分からんでやんすが、とにかくすごい自信だ……足の人」


「ああ」長身の男も口を開く「さっぱり分からんが自信だけは伝わってくる」


 二人は互いに顔を見合わせ大きく頷き、再度ティムに目を向ける。

 長身の男が言った。


「今回はこれで引き上げる。だが諦めたわけではない。覚えていろ、足の人!」


「そうでやんす、足の人!」


 小柄な男の方もそういうと背を向けて足早に去っていく。


 せっかく名を答えたのに結局は「足の人」になってしまった。呼び止めて訂正しようか、と一瞬考えたがやめにした。それよりも今はレイチェルである。

 ティムはレイチェルを振り向く。レイチェルは怯えた目をしてその場で両手を祈りのポーズで固めたままだ。


「いかん!」


 ティムは声の方を振り向く。老人がすごい勢いでティムの方へ足を進めている。

 ティムの目の前まで来ると、立ち止まる。


「いかんぞ」


「何がですか? お父さん」


「いかん!」


「あ、お祖父さん、でしたか?」


「いかん」


「ちょっと、おじいちゃん」とレイチェル。


 老人は一瞬逡巡したようだったが首を横に振り、


「いかん」


「あのですね、おれ、あ、いや、僕は一体どのくらい……」


「いかん」


「おじいちゃん、ちがう……」


「いかん」


 ティムは諦めてレイチェルに目を向けると、同時にレイチェルもティムを振り向いたところだった。一瞬視線が絡むが、すぐに顔を赤らめて口に手を当て、視線をそらす。その姿を見ただけで、ティムの胸には幸福感が充満してくる。


「ごめんなさいね、おじいちゃんちょっとボケてるの」


「いかんぞ」


「いや、気にすることはないよ。レイチェル」


「いかん」


「ところで、僕はどのくらい寝てたの、確か馬に襲われて……」


「2日よ」


「いかん」


「2日?」


「いかん」


「そんなに、あ、じゃあ、昨日の仕事は……」


「あ、それは言っておいたから大丈夫……今日はちょうど工場も休みだし」


「いかん」


 言っておいた、ということは他の三人はこのことを知っているということだ。どう思っているだろうか。


 レイチェルは何かに気づいたのか辺りを見回す。寸胴の桶に目を留め慌てて駆け寄っていく。ティムも後についていく。


「いかんいかん」と言いながら老人も後に続く。

 レイチェルがしゃがみこみ、ひっくり返った桶を見つめる。


「あーあ、また水汲みやり直しか」と、ため息をつく。


 あ、これか、と気づく。


 起きたときに水くみ、というフレーズが口を突いて出たのはこのことを暗示していたに違いない。

 ティムはレイチェルの隣にしゃがみこみ、


「大丈夫だよ、水くみは僕がやるよ」


「いかん」


「悪いわ。それにまだ怪我が……」


「いや、もう大丈夫だよ、いいから」


 ティムは鉄の桶を拾い上げ立ち上がった。

 レイチェルも立ち上がる。


「じゃあ、頼もうかな。……実は、結構重くて大変だったんだ」


 そういうと照れたような笑みを見せた。


「これからは、毎日僕がやるよ」


「ははは、よろしくね」


「いかん」


 さらりと言ったレイチェル。


 毎日水くみをする、とは言い換えれば毎朝一緒に生活するということだ。そのことを認めてくれたということは、つまり、ティムのプロポーズに首肯してくれたと言っても過言ではない。


 水くみを済ませしばらくレイチェルと共に過ごしたティムは、一度自分のゲルに戻ることにした。慌てることはない。レイチェルは逃げはしないのだから。

 ゲル部落ではいつもの朝の風景が繰り広げられていたが、ティムにとっては遠い昔のことのように感じられた。


「おう、早かったな」とジョニー。


 早かった、というのがどういう意味なのか分からない。

 サムは目が合った瞬間、口に手を当ててティムから顔をそらす。何かをこらえているような表情だ。その仕草を最近どこかで見た、とティムはデジャブを感じたがすぐには思い出せなかった。しかし何をこらえているのか。


「まぁ、とりあえずゲルに戻って鏡を見てこい……話はそれからだ」


 ジョニーはあさっての方角を見据えティムと目を合わせないまま、呟くようにいった。

 ジョニーは怒っているのだろうか、とティムは考えながらゲルに戻る。持参した手鏡を取り出し自分の顔を確認する。


 映っていたのは馬の蹄だった。

 ティムは一度冷静に頭を整理する。そしてそれが自らの顔であると認識した瞬間、サムの行為に納得がいった。

 ティムの顔にはしっかりと馬の蹄の形に痣が浮き出していたのである。額から頬にかけて弧を描くように伸びる青い筋。

 サムは笑いをこらえていたのだ。

 そのことに考えが至った瞬間、ティムは思い出した。

 今のサムと全く同じ仕草で視線を逸らし顔を赤らめていたレイチェル。

 ティムの心を黒いもやが覆っていく。

 しばらくそのまま立ち尽くしていたティムであったが、大きく首を振ると鏡を一度伏せた。


「……きっと、気のせいだ」


 そうに違いない間違いない、と一人呟きながら、手鏡をそのままカバンの奥深くにしまいこんだのであった。

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