第35話 第三章 ー12

 もう一息で家にたどり着く、というときであった。

 サムの目の前に覆面の男が現れたのである。これまでも何度か同じようなことがあったため、体は反射的に反応していた。

 背後から、男が走ってくるのが感覚で分かった。サムはさらに速度を上げる。

 夜中の十二時を過ぎていたこともあり、周囲に人の気配は全く無い。

 サムは路地裏に入り、迷わずに角を曲がっていく。

 何度目かの角を曲がった後、足を止め、そっと元来た道を覗き込む。

 男の姿が無いことを確認してから、一度大きく息をつき、今度は早足で歩き始めた。しばらく道なりに進むと、さらに細い、未舗装の道へと続いていた。サムは足を踏み入れる。


 その行き止まりに、古いアパートが建っている。サムは一番手前の部屋のドアノブに手をかけた。ゆっくりと回すと、何の抵抗も無く、ドアが開いた。

 ひっそりと静まり返ったかび臭い室内は、湿気と熱気で空気が淀んで見えた。中に入り、ドアを後ろ手に閉めた瞬間、体中から汗が噴出してきた。思い出したかのように息が荒くなってくる。サムは奥の窓を全開にすると、その場に座り込んだ。


 と、どこからか、耳を突くベルの音が聞こえてきた。少しだけ体を震わせたサムであったが、すぐに消えたのでほっと息をついた。おそらくガソリンスタンドかなにかで、笛が吹かれたのだろう。


 JASTが出演することになっているロック・イン・瀬戸内海が、三日後に迫っていた。結局、アルの指名手配、ティムのインド行き、さらにはジョニーが実家に連れ戻されたこともあり、GHホールでの十二時間ライブ以降、一度も集まっていない。

 まず、アルの指名手配を解かないことには出演はありえない。

 サムの自宅にアルが訊ねてきたときに、ちらっとだけライブの話を出したが、アルはそれにはただ大丈夫だ、とだけ答え、それよりも、と話を変えてあるお願いをしてきたのだ。


 クリスチーナによれば、ティムからは連絡があり、この二、三日中には帰国する、ということであった。好ましくはライブ前に一度スタジオ練習をしてから望みたい、といったところであったが、贅沢は言っていられない。最悪、当日時間までに全員が、あの島まで到着していれば万々歳だ。


 様々に思考をめぐらせていると、目の前で扉が開き、ゆっくりと男が入ってきた。

 覆面を取り去った男は不敵な笑みを見せながら、サムの方をじっと睨みつけていた。

 サムは立ち上がり、言った。


「久しぶりですね、ジャックさん。あれから一年ですか?」


 ジャックは無言のまま懐に手を突っ込み、ピストルを取り出した。その銃口を、サムの方へと向ける。いやな汗が額と背中を伝っていくのを感じながら、サムは極力笑顔を絶やさず、話し続けた。


「もっとも、覆面のあなたには何度もお会いしてますが……とりあえず、その銃を下ろしてもらえませんか。冥土の土産に、なぜ俺がこんな目に合わされているのか、それだけでも教えて欲しいんですよ。わけが分からないまま追い詰められて、そのままってんじゃ、死んでも死にきれないですから」


 しばらく銃口はそのままに、探るような視線をサムに向けていたジャックであったが、一度鼻で笑うと、銃を持つ手を下げた。

 サムはほっと胸を撫で下ろしたが、心臓は相変わらず激しく鼓動を続けていた。


「ずいぶんと、肝が大きくなったじゃねぇか。この一年でよ」


「それはそうですよ。これだけ毎日のように付けねらわれてたんじゃ、恐怖心は麻痺しますよ。いいかげん疲れました」


 疲れた、というのはサムの本音であった。恐怖するのも面倒になるほど、心底疲れていたのだ。


「一年前、あなたに連れられ、WRTへ潜入した。そして、俺は帰国した。ただそれだけです。そうですよね」


「ああ、そうだ、それだけだ」


「そうですか」サムは少し間を空け、「あの街のことを、帰国してから日本に広めなかった、というのが、狙われた原因ですか?」


「いや、そうじゃない。ハナからそんな期待はしちゃいない」


 ジャックは、おどけたように首を傾げると、言った。


「俺はお前だけじゃなく、もっとたくさんの日本人を連れてあの街に潜入しているんだ。そして必ず別れ際には、「あの街を広めてくれ」という言葉をかけている。まぁ下手な鉄砲も何とやら、ってな。それでも、これまで広めようとした人間なんて、その中の何人かで、ほとんどの人間は無かったことにしよう、と決めているのか、それ以降何の音沙汰も無い。お前もその中の一人に過ぎない。それだけじゃ、俺が狙うに値しない」


 サムは黙って先を促した。


「お前は」ジャックが続けた「知りすぎた。お前さんの想像するとおり、俺はソグド人の生き残り、ウエスタンローゼスの人間だ。まぁ、ここまで知っているかどうかは分からんが、今ウエスタンローゼスは大きく二つに分裂している。その中で、俺は旧体制側の人間だ。そして、あのWRTは新興勢力側だ。俺の使命は、あの街を白日の下にさらすこと。さらに、あの新興勢力の瓦解だ」


「そのために、『株式会社IWASHI』の社長が邪魔だったんですか?」


 このサムの言葉に、ジャックは一瞬目を見開き、その次の瞬間には、クツクツと感情を押さえ込むような笑い方をした。


「そこまで知っているか。……そうだ。『株式会社IWASHI』社長を殺したのも、この俺だ。どうやら新興勢力側とつるんでいるようだったんでな。身代わりになってくれたあのアルとか言うやつには申し訳ないが、たまたまモンゴルにいたアリバイの無い日本人だったんで、利用させてもらった」


 言うと、ジャックはおもむろに銃を上げ、銃口をサムに向けてきた。


「お別れだ」


 サムは思わず目を閉じたが、


「身代わりっていうのも、なかなかどうして、悪くないですよ」


 という突然の言葉に、振り返った。窓から、アルが入ってきていた。さらに、屈強な男が二人、共に銃を構えながら、立っていた。その銃口は、真っ直ぐにジャックの方へと向いていた。


「ご苦労様。なかなかの役者だった」


 アルがサムの前に進み出た。


「もし撃たれてたら、どうするつもりだったんだ……」


 男二人も、サムをかばうように前へと進んでいた。


「ちょっと!」


 甲高い声に、振り向く。

 そこには、額から汗を流した女がいた。

 女はサムには興味が無いらしく横を素通りしていく。

 男のうちの一人が慌てて女を押しとどめ、自分の影に隠す。女は必死にその隙間から顔を出し、言った。


「あなたが、あの潜入屋ジャックね! とうとう尻尾をつかんだわ!」


 その言葉に呼応するように、アルがテレコを見せる。


「先程の会話は全て、録音させてもらった。――WRTに潜入したくだりから、『株式会社IWASHI』社長を殺害したところまで、全て。実際、確信は無かったが、ウエスタンローゼス新興勢力側に敵意を持つ人間の犯行、ということ以外、考えられなかった。そうしたとき、今のところお前の名前以外思い浮かばなかった。ただ、それだけだ」


 ジャックはただ黙って銃を構えていた。


「しかし」アルは続けた「このテープを警察に持っていったところで、裏から圧力をかけて隠蔽されてしまうのがオチだ」


 ただし、とアルがさらに続けようとしたとき、それを遮って女が口を挟んだ。


「あなたが、あたし達のWRTに潜入してきたって言う事実だけは別よ。あの『サマルカンド協定』違反に当たるわ」


 女の話では、数百年前、力をつけた新興勢力側が自らの主権を主張して、拠点であるサマルカンドを抜け出し、モンゴルに新たなWRTを建設したということだ。その際に締結された不可侵条約が、『サマルカンド協定』だという。


「表の世界にはいくらでも圧力はかけられるが、抑止力が拮抗しているウエスタンローゼス同士だと話が別だ」


 男二人は相変わらずその銃口をジャックに向けているが、ジャックも負けじと銃を下げない。

 しばらくそのまま睨み合いが続いていたが、ついに、アルが口火を切った。


「お互い、共倒れになるようなことは止めないか?」


 ジャックはこの状況になってから、初めて感情を顔に表した。その笑みは、諦めにも見えたが、逆に余裕の表情ともとれるものであった。


「何か、取引きをする、ということか?」


「私はこのテープをウエスタンローゼス側には渡さない。そして、お前は私の指名手配を解く」


 アルは表情を変えずに言う。


「もし、そのテープがウエスタンローゼス側に渡った場合は?」


「その場合は、もはや私はお前に対して切り札を失うことになる。もう一度私を犯人に仕立て上げればいい……それでいいですね?」


 アルが女の方を向く。

 女はあからさまに不服そうに唇をへの字に曲げていたが、仕方が無い、と小さく呟く。

 それを見て、ジャックが銃を下ろした。女の前で仁王立ちしていた男二人も、銃を下ろした。

 ジャックが去っていった後、改めて、自己紹介が始まった。

 アルと共に入ってきた女は、ベロニカと名乗った。

 不満顔の彼女の話では、サムが来るまでひたすら。この隣の部屋で熱気と湿気にまみれていた、ということであった。その矛先は何故かサムに向いていた。


 何者かに追われたときに、このアパートの一番手前の部屋に何とかして誘い出してくれ。というのが、アルのお願いであった。そして、その男がジャックであったなら、彼の口から、WRTに侵入した、ということを喋るように仕向けてくれ、ということであった。


 そして、この部屋の窓が開くとアルが潜伏していた部屋でブザーが鳴るように、あらかじめ何らかの仕掛けがしてあったのだ。窓を開けたときに遠くから聞こえたベルの音は、それだったのだろう。

 指名手配が正式に解けるまでは、しばらく潜伏している、というアルに、

「ロック・イン・瀬戸内海まで、あと3日」ということだけは伝えてから別れを告げ、家路を急いだ。



 次の日の昼過ぎ、クリスチーナから電話が入った。

 ティムが帰国したが、そのまま倒れて病院へ担ぎ込まれた、という連絡であった。

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