第36話 第三章 ー13
クリスチーナがティムの病室に着いたときには、既にサムが来ていた。サムによれば、ティムの状態はそれほど急を要するものではない、ということであったため、クリスチーナはひとまず胸を撫で下ろした。
げっそりとやつれた表情で眠り込むティムの隣に腰を下ろした。
「何とか、ライブには出たいわね。こんな状態の彼に言うのは酷かもしれないけど」
「いや、むしろ叩き起こしてでもライブには出る」
サムが言った。
先程まではティムも元気に起きていたらしく、何とかライブには間に合うだろう、と医者からも言われているという。
病室から出て、しばらくは廊下を歩いていたが、自動販売機の設置された簡単な休憩所を通り過ぎようとしたとき、
「ちょっといいか」
と、サムがソファーに腰を下ろした。
クリスチーナも続いて向かい側のソファーに腰を下ろす。
「さっき言ったライブに間に合う、っていうのはあくまでも今回のライブには、ってことなんだ」
すぐには意味が分からなかったクリスチーナは、黙って先を促した。
「彼、おそらく数年前からかなり酷い水虫だったらしくて、今回のことも、根本的な原因はそこにある、という話なんだ」
「水虫が?」
「そう、非常に珍しいケースらしい。詳しいことはよく分からないけど、その水虫の菌が体中にまわってしまっているらしいんだよ。もちろん、世界でも例の無いケースだけど」
「それで、治るの?」
サムは首を振りながら、言葉を続けた。
「アルコールの過剰摂取、その他、不摂生をやめれば、体の抵抗力が回復して何とかなるかもしれない、というのが、医者の見解だよ」
急にどうにかなってしまうと言うことは考えにくいので、今回のライブは無理をすれば大丈夫だろう、ということだ。
一年後にどうなるかの保障もなければ、慢性化して一生持病として付き合っていくべき病気となるかもしれない。そのあたりは前例がないため判断のしようが無い。しかし、どちらにしても要観察であるという事実には変わりはないため、今回のライブが終わった後、これまで通りバンド活動を続けられるのかどうかは、何ともいえないようだ。
「ま、今はそんなこと言っても仕方が無い。なるようになるさ」
サムは薄く笑みを浮かべ「それよりも」と、話をつないだ。
「ティムがインドに行った理由、聞いた?」
クリスチーナは首を横に振る。
「そうか……あいつ、あるゾウを探しに行ったらしいんだ」
「ゾウ?」
「そう、確か『笑うゾウ』って言ってたかな」
その言葉を聞いた瞬間、クリスチーナは思わず立ち上がっていた。
驚いた表情で見上げるサムに、
「ごめんなさい……続けて」と、冷静を装って先を促したが、このとき、クリスチーナは鼓動の高鳴りを感じていた。
ウランバートルでの出来事から始まり、ウエスタンローゼスと『株式会社IWASHI』との関係、さらにジャックのこと。そして、今回『笑うゾウ』捜索をティムに依頼したレイチェルについてまで、クリスチーナにとっては初めて耳にすることばかりだった。
黙って聞いていたクリスチーナであったが、その中で『笑う像』については、彼女しか知らない事実があることが分かった。ティムはおそらく『笑う像』を『笑う象』と聞き間違えたのだ。
そしてもう一点、気になることがあった。
JASTをウランバートルに飛ばすに当たって、一人の男の助けを借りたクリスチーナであったが、その風貌が、サムの話に出てきたジャックと酷似しているのだ。
しばらく沈黙が続いた後、クリスチーナは一度髪をかきあげ、思いついたように口を開いた。
「それで、ティムはその、『笑うゾウ』を見つけたの?」
この問いについては、サムもティム本人に投げかけたようであったが、彼が口を閉ざしている、ということだった。おそらくは見つかっていないのだろう。もともと、そんなものはいないのだから。
『笑う像』の捜索をクリスチーナが断ったとなれば、当然他の人間にその任務が回っていくはずである。そして、タイミング的にも、そのレイチェルという少女がクリスチーナの後を引き継いだと考えるのが妥当である。とすれば――
クリスチーナは即座に立ち上がった。
「アルの潜伏先は?」
サムがなぜ? という表情を浮かべるが、説明している時間は無い。
とにかく教えて、と言うと、サムはその勢いに押されたのか、素直にその住所を口にした。
クリスチーナがアルの潜伏先のアパートに着いたときには、すでに人の気配はどこにも無かった。それでも、少し残り香が感じられた。マヨネーズとコンソメの入り混じったような、何ともいえない臭いだ。
しばらくは室内を物色していたが、何もない、と判断したクリスチーナが、部屋を出たとき、
「クリスチーナ、驚かさないでくれ」
という安堵混じりの声が、背後から聞こえた。
振り返ったクリスチーナの視線の先で、アルはすでにドアを開けて部屋へと足を踏み入れていたので、その後に続いた。
サムから聞いた話の内容を披露すると、それなら話は早い、とアルは息をついた。少し、疲れているようだ。彼のそんな姿を見るのは初めてかもしれない。
「ベロニカを駅まで送ってきたんだ。……疲れたよ」
「相当なお転婆娘だって、サムが言ってたわ」
アルは可笑しそうに口元に手をやりながら、言った。
「もう、お転婆、と言えるような年でもないと思うが……」
「ま、失礼な人……と、そんな話をしている暇は無いんだったわ。ティムの話、聞いた? ゾウを探しにインドに行ったって」
「ああ、結局見つかったのかどうかは知らないが――」
「見つかるわけ無いわ」
クリスチーナがぴしゃりと跳ね除けるように言うと、アルは口を閉ざし、先を促す仕草をした。
「組織が、『笑うゾウ』を探しているのよ」
「『猫の額』が?」
「ゾウと言っても、動物のゾウじゃなくて、仏像の方ね」
アルは一瞬視線を外し、何かを考えているようであったが、なるほど、と頷いた。
「察しがいいわね。ティムが勘違いしているのはもうどうでもいいから置いておくとして、問題はそのレイチェルとか言う少女よ。本当は私に与えられた任務だったんだけど、ま、ワケあって断ったの。それで、おそらく組織は別の人間に白羽の矢を立てた。それがレイチェルだったんだと思う」
アルは顎に手をやり、目を閉じて黙って聞いていた。
「どういうことかしら? その、『ウエスタンローゼス』と『猫の額』がつるんでいるっていうこと? でもそうなら変よね。『ウエスタンローゼス』は『株式会社IWASHI』と組んでいるんだから……」
敵対する『株式会社IWASHI』と『猫の額』を、同時に仲間に引き入れて何か得があるとは思えない。むしろ災いの種を増やすだけだ。
クリスチーナが話し終えてからも、アルはしばらく考え込んでいる様子で、うかつに声をかけられる雰囲気ではなかった。結局、アルの思考が結論を導くまで待つしかないのである。
ふと、二日後に迫ったロック・イン・瀬戸内海のことが、脳裏をよぎった。まったく現実味は無いが、あのロックの祭典に、JASTが出演することになっているのだ。
この数ヶ月、彼女はそのことだけを考え続けてきた。そのためにイベントの主催側との打ち合わせにも赴き、アルの指名手配については何かの間違いで、当日までには解けるはず、ということを説得するのが一苦労であった。実際、今日付けで指名手配は解かれているため、相手先からは正式に出演オッケーの連絡が入った。
アルの問題が無くなり、ティムも何とかなりそう、となった今最も大きな懸案となっているのは、ジョニーであった。
『株式会社IWASHI』社長の死がテレビで報じられてから、しばらくは何食わぬ顔で彼女の前にも顔を出していたジョニーであったが、ちょうど二週間ほど前、
「ちょっと、実家に帰ってくる。まぁ多分三、四日で帰ってくるから、心配するなよ」
とだけ言い残して、淡路島へと向かった。
その後、帰ってきた様子も無ければ、連絡も無い。
「ジョニーはどうしているんだ?」
アルが沈黙を破り、ぽつり、と呟いた。
「まだ、実家よ」
「それは少々マズいんじゃないか?」
「……もちろんよ。分かっているわ」
「助けに行ってやれよ」
アルが淡々と言葉をつないでいく。
でも、どうやって、と言いかけたクリスチーナであったが、口をつぐんだ。仮にも元組織の女である。幸い、ジョニーの実家には何度か潜入したことはあるのだ。そのぐらいは自分で考えるべきだ。
クリスチーナは頷き、
「あなたはどうするの? 一緒に行く?」
「いや、ちょっと、用事が出来た」
「用事?」
「大丈夫だ。今日中に終わる程度の些細な用事だから、ライブには何も影響は無い。それよりも、ジョニーのことは頼んだ」
アルがにやりと笑みを見せ、クリスチーナの目を見つめてきた。
クリスチーナは頷くしかなかった。些細な用事、とは言っているがおそらく重大な意味を持ったことなのだろう。内容を聞きたい欲求と戦いながら、彼女は腰を上げ、アパートを後にした。自分にはやらなければならないことがある、と言い聞かせていた。問題は多いが、それでも、彼女の胸は躍っていた。
昔、組織に何の疑問も無く、使命感に燃えていた頃の自分が、ちょうどこんな感じではなかったか、とふと思ったが、それは考えないことにして、一路淡路島へ向かった。
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