第37話 第三章 ー14

 JR法隆寺駅に着くと、うだるような熱気と蝉の声がアルを迎えてくれた。

 クリスチーナから『猫の額』と『ウエスタンローゼス』の関係を聞いた瞬間に、アルは全てのカラクリに気付いていた。ふつふつと湧き上がってくる感情を抑えるのに必死で、とてもではないが冷静にクリスチーナに伝えられる内容ではない。さらに、その真偽については確認をしなければならない、ということもあり、一人で来る事にしたのだ。


 彼の中では、かつて味わったことの無い怒りにも似た、焦燥感が湧き上がっていた。無実の罪で容疑者にされたことを知った時にも、これほどの動揺は無かった。

『ウエスタンローゼス』のオフィスへ足を踏み入れようとすると、中から、甲高い怒声が聞こえてきた。ベロニカの声だ。さらに、それに続いて、聞き覚えのある、男の声が響く。ベロニカの兄の声だ。


「ぜったい反則よ、お兄様! 訴えてやるから!」


 そう叫びながら飛び出してきたベロニカが、アルの目の前でつんのめった。アルは反射的に手を差し伸べ、その体を抱きとめた。


「あ、……アル」


「大丈夫ですか?」


 ベロニカはそそくさと立ち上がり、ばつが悪そうな表情でそっぽを向き、


「今からモンゴルに帰るところだったのよ」


「そうですか……まぁちょっと待ってくれませんか。時間は取らせませんよ。ほんの十分ほどで終わるので。お兄さんもいるのなら、ちょうどいい」


「お兄様にも?」


 ベロニカが首を傾げる。

 アルはついてきて、という仕草をすると、家の中へと入っていく。

 最奥の座敷には、ベロニカの兄が鎮座していた。


「なんじゃ、またお前か、お前とは話しとうない。帰れ」


 アルの方には目もくれない男に対し、アルは極力感情を抑えた声で、


「まぁ、そう言わずに、少し話しませんか……ゲームの話とか、ね」


 その瞬間、目前に迫った陶器製の灰皿を何とか手で払いのけた。灰皿は鈍い音を立てて、畳の上に転がる。

 アルに灰皿を見舞ったベロニカの兄は、ちっと舌打ちすると、帰れ、と叫ぶ。


「……大丈夫?」


 ベロニカが近寄ってくるが、アルは手で制した。

 彼女に対しても、穏やかな精神状態で接する自信が無かったのである。


「あなたが、『猫の額』。そして、ベロニカが『株式会社IWASHI』ですね」


「なぜそれを――」


 言いかけたベロニカをぎろりと睨みつけた後、男はアルを見据えた。さっきまでの怒りの表情はどこかに消え、逆に冷め切った目をして鼻で笑っている。


「だとしたら何だというのじゃ。所詮はお前たちなど、我ら『ウエスタンローゼス』からすれば、ただのコマに過ぎぬ。それこそ、ゲームに利用する以外には価値の無いほどの、な」


「『猫の額』はあなたのネーミングですか?」


「そうだ」男はにやりと笑むと「いい名前だろう。猫と鰯、滑稽な組み合わせだ。馬を取り合うゲームには相応しい」


 高らかに笑う男に対し、沸いてくる感情は、もはや怒りではなく、どうしようもない無力感であった。


「馬など、余にとってはどうでもいい。ただ、妹に負けると言うことが我慢ならなかったのでな。ちょっとばっかし投資させていただいた」


『乱獲された鰯を食卓から追放する会(OSSOT)』と呼ばれていた頃のただの主婦連合が、急速に組織として膨れ上がっていった時期と、この兄弟が『神の奇跡』を巡ってゲームを始めた時期とが、ちょうど一致する。


「反則よ! そんなにお金を使っていいなんて、聞いてない!」


 ベロニカが口を尖らせる。


「だまれ、妹よ。だからこそ、ハンデとして、世はただの主婦連合を自分の持ち駒としたのじゃ。それだけで十分お前の方が有利なのじゃぞ」


「だって、ひと月のお小遣いはあたしの方が少ないんだもん。それが積み重なれば、いつかはお兄様が有利になるのは目に見えているわ!」


「しらんしらん! そんなことは知らん!」


 ベロニカの兄は、子供のようにぶるぶると頭を振り回している。

 そのまま兄弟喧嘩に突入した二人を残して、アルはオフィスを出た。

 


 次の日、ティムの病院へ足を運ぶと、病室にはサムが先に来ていた。ティムも起きて話をしている。相変わらず頬はこけており、とても健康だとは言いがたい状態のようであったが、とりあえず大事には至っていないことは分かった。


「ついに、明日『世界の手数王』が復活ライブだ。歴史に残ること間違いなしだな」


「いつの間に『世界の』になったんだよ」


 サムが呆れはてて呟いている。

 ティムが辺りを見回しながら、言った。


「そういえばジョニーは?」


 二人に見つめられたアルは、一瞬だけ逡巡したが、結局は、


「明日には、必ず来るさ。心配ない」とだけ答えておいた。



 第十回ロック・イン・瀬戸内海当日の朝、待ち合わせ場所にはサムとティムが顔を揃えていた。ティムの顔には若干疲労が浮かんでいたが、何とか虚勢を張れる程度の状態ではあるようだ。


「やっぱり、ジョニーは……」


 不安そうに眉を寄せるサムの背中を叩きながら、アルは言った。


「なぁに、まだ諦めるのは早いさ」


「そうそう、遅刻はあの男の専売特許だからな」


 言いながら笑い飛ばすティム。

 サムとアルもつられて笑う。

 道中はジョニーのことには触れず、他愛のない会話を交わしていると、そのうちに現地に到着した。

 イベント設営の本部に行き、JASTが到着したことを告げると、ここ数日連絡が取れなかったことに対してくどくどと小言を言われた。サムが代表してしきりに頭を下げていた。


 待合室に案内され、荷物を下ろした後は、それぞれ自由行動ということにした。それでも仮にも出演する人間であるため、あまりに人が多いところは避けてください、と言われていた。コアなファンに発見されればパニックになることが容易に予想できるからだ。

 サムは大人しくギターのチューニングをしていた。その隣で、ティムが寝ていた。やはり、どうしても体に無理があるのだろう。

 アルはすぐに戻る、と言いおいて、そっと待合室を出た。


 一通り会場を歩き回っているだけで昼を過ぎたため、アルは適当な屋台で買った焼きそばを食べた。食べ終わる前に何人かからサインを求められた。

 その後、しばらく他のバンドのライブを見ていたが、何度も周りの観客に声をかけられ、時には囲まれて身動きが取れなくなることもあり、少し疲れてきたアルは、なるべく人目を避けて裏通りを歩くことにした。


 そのうちに、海岸へとたどり着いた。バンド演奏の音は遠くからかすかに聞こえる程度だ。

 ガードレールにもたれて一息ついたアルは、つい昨日のことを思い出していた。

 結局、ただのコマだったのだ。

『株式会社IWASHI』も、『猫の額』も。

 スティーブは『ウエスタンローゼス』に取って代わるというようなことを言っていたが、とんだ勘違いをしている。

 次元が違いすぎるのだ。どこまで行っても、結局上には上がいる。それならば何も知らずに生きていた方が、いっそ幸せなのかもしれない。

 アルはこんなことを考え始めた自分に対して、自嘲気味に笑ってしまった。


「どうかしてるな」


 さらに『ウエスタンローゼス』に深く入り込み、上を目指すのだ。そしてそこからさらに上を見ればいい。その繰り返しだ。

 アルは半ば自分に言い聞かせる。

 その後は一体何が見える? という問いがどこかから頭の中に響いてくるが、無視することにした。さらに上を見る、というのがその答えであり、結局は質問と回答が循環してしまうことになる。

 そこまで思考をめぐらせてから、アルは再び歩き始めた。そろそろJASTの出番が迫っているのだ。


 と、どこか遠くで、銃声が聞こえた。

 反射的に振り向いたアルの視線の先には、ジャックがいた。拳銃を握り締めている。


「悪いな」


 と、銃口をアルに向けるジャックから視線を外し、自分の足を見た。じわじわ、とどす黒く染まっていくズボンを、まるで他人事のように眺めながら、アルはジャックに目を戻した。


「方針が変わった。我がサマルカンド側は、新体制側のWRTに対し、昨日付けで宣戦布告を宣言した。よって、お前のテープなど、もうどうでもよくなった」


 失血により、目の前の風景がぼんやりと霞んできたアルは、

「そうか」という言葉しか出すことができなかった。

 思考もだいぶ麻痺している。


「最後に、一つ教えてやろう。お前の父も、俺がWRTに連れて行ったうちの一人だ。そして、あの街のことを世間に広めようとしてくれた数少ない勇者の一人だ。だが、そのおかげで、『株式会社IWASHI』には嫌われた。……それで、どんな目にあったのかはお前の方がよく知っているな」


 予想していなかったことではない。

 アルはこの言葉に対しても、「そうか」としか反応できなかった。

 しばらくアルが何かを言うのを待っていたらしいジャックが、「残念だ」と呟き銃を上げたその刹那、付近から複数の嬌声が響いてきた。

 ジャックが反射的に銃を懐にしまいこんだ。

 舌打ちをしてそのまま走り去っていく。

 アルは重い頭を上げた。ライブで興奮しているのか、甲高い雄たけびを上げながら、男女数人がアルの隣を通り過ぎていく。

 アルは歩き始めた。

 ライブ出演の時間が目前に迫っているのだ。

 行かなければならない。

 待合室に着いたときには、アルの視界は半分以上閉ざされていた。

 サムが駆け寄ってきて何事かを叫んでいるが、耳鳴りに邪魔されて、何も聞こえない。

 ティムが視界に入ってきたような気がしたが、それも分からなくなった。

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