第2話 第一章 -2

 こんなに長い時間をマスターと共有するのはひょっとしたら初めてかもしれない、とサムが考えていると、マスターが唐突にサムの方を振り向いた。


「『クリスチヌス』が活動休止になってから、どのくらいだっけ?」


「もうじき、3ヵ月になりますね」


「そろそろじゃないかな?」


 そろそろ、とは活動再開のことだろう。

 サムが曖昧に言葉を濁すと、マスターは聞こえなかったのか、そのふりをしたのか、サムの発言には答えずに言う。


「今日は、ティムを呼んである」


 サムは言葉を失う。


「あの、ティム・Bだ、知らないはずはなかろう」


「……急ですね」


「3ヶ月だぞ。急なもんか」


 急、の意味が違う、と喉まで出かけた言葉を飲み込んだサムは、分かりました、と答え席を立った。アルが姿を現したのだ。

 アルの隣には、見覚えのある小柄な男が従っていた。

 不自然なまでに赤い髪をなびかせ、肩で風をきって歩くそのこけた頬の男を見た瞬間、サムは意識して笑顔を作った。そうでもしなければ、表情から本心が滲み出てしまいそうだったのである。


「もう帰ったのかと思っていましたが、入れ違いにならなくて良かった」


 アルが少し微笑み、ティムの方に顔を向けた。

 気のせいか、ティムが胸を反らせたように、サムは感じた。


「一応紹介しておきます、ティム・Bです」


 サムは、うん、知ってる、と言いかけたが思い直し、よろしくと小声で答え会釈した。

 ティムは自分の好きな音楽、ドラムプレイに対するこだわり、さらに『クリスチヌス』の曲の中では「朝までロケンロール」よりも「Can’t stop my heart」の方が好みだ、ということまで、ひとしきり一人でまくし立てた。


 サムは曖昧に相槌を打っていたが、次第に対応するのが億劫になってきていた。意識は上の空で、ジョニーは何と言うだろうか、と何となく想像していた。考えれば考えるほど、自分ではどうしても振りほどけない黒いもやがサムの体を覆う。

 この日は最後に、次はジョニーも同伴でもう一度会う、という口約束を交わして帰途についた。

 アルが連れて来た、ということがサムにとっては唯一の救いであった。サムには分からないが、何か深い意味があるはずなのだ。

 サムはそう思い直し、その足でジョニーの家に向かうことにした。この日は元々その予定を入れていた。

 GHホールの最寄りの駅まで、歩いて30分かかる。非常に中途半端な距離だ、と以前から感じていたサムは、一度その理由をマスターに尋ねたことがある。マスター曰く、土壌がいい、ということだったが、さらにサムが問い詰めると、冗談だといって笑いながら去って行ったのであった。

 駅に着いたサムは、既に到着していた電車に乗り込み、窓から夜の景色を眺める。

 ベッドタウン、という言葉が最もしっくりくる。そんな町だ。間違ってもライブハウスが流行りそうな気配は無い。逆に、だからこそ、この近辺ではGHホールの独占状態が続いている、とも言えた。

 電車が動き始める。閑散とした車内では、車輪とレールの擦れあう規則的な音だけが響いていた。サムは大きく息をつき、目を閉じた。ティムの加入についてジョニーに伝えると考えただけで、気が重くなる。

 二駅目で電車を降り、駅を出る。GHホール周辺よりは幾分賑わいがある町だ。都会と言うには無理があるが、電気屋から食料品のスーパーまで一通りは揃っており、生活には困らない。付近に大学があるため、一人暮らしの学生用のアパートが林立している。

 サムは嬌声を上げる学生の群れを避けながら、ジョニーのアパートへと向かう。

 と、背後から爆音が轟く。サムは顔をしかめ、ちらと様子を伺う。

 見覚えのある大型のバイクがサムの目の前で道をふさぐ様に停車する。


「乗っていけよ」


 フルフェイスのヘルメットを外したジョニーが、バイクから降りサムに言った。


「すぐだから、いいよ。……それにしても奇遇だね」


「待ってたんだよ」


 ジョニーはサムの意思を完全に無視して、予備のヘルメットを取り出し投げてきた。サムは反射的に受け取る。ジョニーがヘルメットを被りなおし、バイクにまたがった。サムはヘルメットを頭にのせながら、その後ろに座る。


「安全運転でよろしく」


 このサムの言葉には答えず、ジョニーがアクセルをふかす。

 体が取り残されたように感じたサムは、必死にジョニーにしがみついた。歩いても数分の距離だ。バイクならほんの一瞬だろう。サムはそう思っていたが、気づけば辺りには見覚えのない風景が広がっていた。


「へぇ、あそこにもバイク屋が出来たのか。今度行ってみようか……」


 ジョニーが呟く。後ろに人が乗っていることを忘れてしまっているのではないか、と一瞬不安になったサムであったが、諦めてひたすらジョニーの肩を握っていた。アパートに着く頃には、サムの両手に軽い痺れが残るほどであった。


「飲むか?」


 部屋に帰り着くとすぐ、ジョニーが言った。サムには答える暇も権利も与えられなかった。目の前に小さなグラスと、琥珀色のビンが並べられた。ジャックダニエルだった。


「これをアイスミルクで割るのもなかなかだぜ」


「アイスミルクって、いわゆる牛乳ね」


 サムはジョニーのこの提案は無視して、水割りにした。

 ジョニーはすぐに台所に戻ると、缶詰を片手に戻ってきた。鰯の缶詰だ。

 向かい側に座り込んだジョニーはテレビをつける。ちょうどニュースが流れ始めたところだった。


「今日、GHホール行って来たよ」


「へぇ。……で?」


 ジョニーはテレビに目を向けたまま、缶詰を開けた。


「もうそろそろじゃないか、ってさ」


 ティムを後任に、という話をすぐに切り出すことはサムには出来なかった。ジョニーの反応を見てから少しずつ話そう、とサムは考えていた。

 サムが続けて口を開こうとすると、ジョニーが遮り、言った。


「ここ数週間、実家に帰ってたんだ」


「実家に?」


 ジョニーの実家は兵庫県、淡路島にあると聞いている。詳しい事情は分からないが、高校はサムと同じく神戸市で、その頃から一人暮らしをしていた。その訳について尋ねることを許さない雰囲気を、ジョニーは持っていた。


「そこでも言われた。『もうそろそろじゃないか』ってね」


 そう言うと、ジョニーがサムに向き直る。

『そろそろ実家に帰って来い』という意味だろうとサムは解釈し、軽く頷いた。

 サムは大学へと進学するために大阪に出てきたが、ジョニーは違った。高校を出た後、すぐに就職口を求めて大阪に来ていた。その当初こそどこかで働いていたようなことを聞いたが、数ヶ月も続かず、それからはずっとバイト先を転々としている。


「で、何だって? そろそろって、バンド再開か?」


「ああ、うん、そうだよ。……でも、そっちの状況を優先するよ。別に急ぐ必要もないし」


 と、言いながらも、サムはジョニーがこのまま帰ってしまうことを恐れていた。そんなサムの本音を読み取ったかのように、ジョニーが言った。


「俺はいつでも大丈夫だぜ。どうせバンド以外やることはないんだ。とりあえず練習だけでもやるか? そうだな……ちょっと趣向を変えてコピーでもやろうぜ。俺がフルート片手にジェスロ・タルとか」


 サムは軽く笑うと、言った。


「それじゃ、まずは片足で立つ練習からだね……それとも、俺はあんまり好きじゃないけど、ジャニス・ジョップリンは?」


「ああ、それは金がいるからだめだ」


 サムは首をかしげ、先を促す。


「だってそうだろ? ジャニスをやるならまずはドラッグ買わないと。ヤク中にならなけりゃ、あんな声出ないぜ」


「はは……それなら、俺が右手にギターを持ち替えてジミヘンとか」


「それなら俺はベースだけになっちまう」


 テレビのブラウン管からは流行の歌謡曲が流れてきていた。何というグループなのか、サムには分からない。興味も無かった。

 ジョニーがリモコンを握りテレビの方へと向けた瞬間に流れてきた野外ライブには、見覚えがあった。『第八回ロック・イン・瀬戸内海』の録画放送である。

 ロック・イン・瀬戸内海は、瀬戸大橋付近に浮かぶ、ある一つの島を、それごとイベント会場に仕立て上げた大規模なロックの祭典である。飲食物を売る店から、傘やタオル、その他雑貨を売る店、また一歩裏に入れば、怪しげな乾物を商う人たちが群れをなしている。それらの不法な取引を取り締まるという名目で、警備員が定期的に見回りを行ってはいたが、それは完全に形骸化している、という話であった。


「今年はイマイチだったねぇ」


 ジョニーの呟きには、サムも同意せざるを得ない。

 ロック・イン・瀬戸内海と言えば、毎年そのコンセプトが変わることでも有名である。実質的には主にその年に流行ったバンドを呼ぶというスタンスである。集客数を上げるためには仕方がない一面もあるが、流行と音楽の質は必ずしも一致しないことを考えると、どうにもその出演バンドには納得のいかない年もある。


「『割れない眼鏡』、今年は出なかったね。まぁもうそんな時代でもないけど……」


『割れない眼鏡』は、ブームが去ってからも毎年出演していた。主催者側の視点から考えると、コアなファンを狙ったものだったに違いないが、今回はお呼びがかからなかったようだ。ファンの高齢化が原因の一つなのかもしれない。

 この後しばらく話をしているうちに、いい感じに酔いがまわってきたサムは、ティムの話を持ち出すのはまた次の機会にして、そのまま寝てしまうことにした。

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