第3話 第一章 ー3

 GHホールに呼びだされたティムは、その意図を既に確信していた。『ガールズガールズ』を抜けてから一ヶ月が経とうとしている。

 そろそろどこかから声がかかってもおかしくはない、と思っていた矢先の連絡だったので、ピンと来たのだ。しかし、「GHホールの手数王」を自負するティムにとっては、遅すぎる誘いであったと言わざるを得ない。

 それでも、とティムは思い直す。引く手あまたなのは間違いのない事実なのだから、たくさんの候補からどこのバンドを推薦すれば良いか、あのアルにしても悩んでいたのだ。何しろ「GHホールの手数王」なのだから。ティムはそう理解した。


 そのティムにとっても『クリスチヌス』への加入は予想していなかった。『クリスチヌス』のベースボーカル、ジョニー・Dは、業界でも変わり者で通っている。そのせいで、いつまでも新しいベースが加入せず、ジョニーが弾かざるを得ないのだ。

 ドラムが抜けた理由は、表向きは「ちゃんとした就職を探す」という理由であったが、実際のところ、ジョニーに愛想が尽きたのではないか、とティムは踏んでいた。並のドラマーならば、それも仕方がない。


 ティムはそのジョニーに会うために、GHホールに向かっていた。

 ギターのサム・Rと会い話をしてから、さらに一ヶ月が経っていた。そこまで時間が経ってしまった理由が、ジョニーの都合であることは明らかである。サムはすぐにでもバンドに入って欲しいと言いたいのを必死に抑えている様子であった。おそらくジョニーに気を使ってのことであろう。

 そうであれば、ジョニーに何らかの原因がある以外には考えられない。それでも、ティムの方から連絡をとるという選択肢は無かった。彼のプライドが許さなかったのである。


 ティムは、約束の時間より十分程遅れてGHホールに到着した。

 サムは既に入り口前のベンチに腰を下ろしていた。ティムが声をかけると、弾かれたように立ち上がり、笑顔を見せた。

 ジョニーは、とティムが聞こうとした瞬間、階段を駆け上がる軽快な足音と、聞き覚えのある声が背後からティムの耳に届いた。

 ティムが振り返る。

 その長身の男は、乱れた髪を気にする様子も無く「ごめんごめん」と独り言のように口にした。ティムは声をかけようとしたが、その男、ジョニー・Dは一瞥もくれずにティムの横を通り過ぎた。


「ごめんごめん、寝坊した。あ、いや、違うな。忘れてた」


 ジョニーはサムに笑いながら言う。

 ティムはどう対処すべきか決めかね、その場で腕を組んでいた。

 ティムに背を向けたまま、ジョニーが言う


「で、ティム・Bだっけ? 彼はまだなの?」


 サムが後ろ、と呟く。

 ジョニーがティムに向き直った。


「ああ、君か、君がティムか、よろしく」


 このジョニーの言葉に、ティムは一瞬言葉を失った。

 彼自身、焦燥にも似たその自分の感情を制御することが出来ず、ただ、早く到着しすぎたことを後悔した。

 ティムは襟を正し、精一杯の笑みを浮かべながら、ジョニーに言った。


「ああ、あなたがジョニーですか、全然気づきませんでした」


「あ、そう?」


 ジョニーは一瞬だけ視線をそらしたが、ティムに向き直り言った。


「ま、いいや、よろしく」


 ティムが右手を差し出そうとすると同時に、そうだ、と呟いたジョニーは背後のサムに視線を向けた。ティムは行き場を失った右手を、ゆっくりと頭に持っていき、髪をかきあげた。


「クリスチーナは?」


 ジョニーがサムに尋ねた。


「ああ、今ライブ見てる。ジョニーが着いたら呼んでってさ」


「失礼な、人を遅刻魔のように……」


 一瞬、演奏の音が漏れ聞こえ、すぐに消えた。

 ホールへと続くドアから、人が出てきたのだ。


「あ、来てたの? 呼んでって言ってたのに」


 女がサムにちらと目をやってから、ティムに向き直った。

 その艶やかな黒髪に覆われた側頭部が、光を反射して白く輝いている。

 女は微妙に右側に首を傾げながら、ティムに笑いかけた


「はじめまして、『クリスチヌス』のマネージャー、クリスチーナ・Rです。……っていう自己紹介、実はすごく恥ずかしいんだけどね。まるで私がバンド名を付けたみたいに思われそうで」


 クリスチーナはそう言うと、ティムの返事を待たず、背を向け、受付の奥にちらちらと姿を見せるアルを呼び出した。奥から、すぐ行く、というアルの声、と同時に先にマスターが顔を出した。


「やや、皆さんおそろいで」


「こんにちは、マスター。今日のサングラスいかしてるね」


「お、さすがジョニー、分かってるじゃない。今日のはオーダーメイドなんだ。僕は顔が大きいから普通のだと横幅が足りなくてね……その点このサングラスは、わざわざ僕の幅、形に合わせてるから、なんて言ったらいいのかな、ここにあるのに無いって感じ? 分かる?」


「長年連れ添った女房みたいなもんだ、でしょう?」


 姿を現したアルが口を挟む。

 それを今から言おうと思ってたのに、と独り言のように呟くマスターを尻目に、アルがクリスチーナに目を向けた。


「さて、ここでまた当たり障りの無い話をしても仕方がないので、単刀直入に言いますが、彼の加入について考えていただけましたか?」


「ええ、ただ、急なことなので決めかねているだけです」


 ティムは話を聞いてはいたが、理解が追いついていなかった。彼の視界の大部分を占めているのは今やクリスチーナの唇であり、その首筋から胸元までのカーブであった。

 時折、アルがティムに意思確認のために何かを尋ねてくるが、ティムはひたすら頷くのみであった。結果、どうやらティムの『クリスチヌス』への加入が正式に決定したようであった。


「よろしくね」


 と、微笑むクリスチーナ。

 ティムは髪をかきあげ、咳払いをすると、よろしく、と意識して低い声で答えた。

 この日から、寝ても覚めてもティムの脳裏には常にクリスチーナの姿がちらついていた。その小さな唇、胸元、腰からヒップのライン、全て鮮明に思い出すことが出来た。座る時には必ず一度は右足を組むということから、笑うときには唇の右端を上げる、ということまで、全て鮮明に思い描くことが出来る。


 そしてあるライブ後の打ち上げ中、クリスチーナが席を立った時のことである。

 クリスチーナがいつの間にか姿を消す、ということは特に珍しいことではない。そのこと自体、ティムは早くから気づいていた。

 しかし、この日は同時にサムが消えた。この時ばかりは、すわ一大事、とティムも打ち上げ会場を後にした。そして薄暗く狭い路地裏でサムとクリスチーナが二人でいるところを発見した。

 声をかけようかどうか一瞬だけ迷ったティムであったが、そのただならぬ雰囲気に足が進まず、結局隠れて話を聞くという形になった。そして、その内容を理解したティムは、その場に立ち尽くすことになった。

 サムとクリスチーナは恋仲であったのだ。

 それ以来、ティムのドラムに生気が無くなった、という噂が流れ始め、その話がティム自身の耳にまで入るようになったが、ティムにはどうすることも出来なかった。音楽どころではない、と言うのがティムの本音であった。

 そんなティムの精神状態とは裏腹に、『クリスチヌス』はマニアの間には着実に浸透していった。

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