第4話 第一章 ー4
かつては大学の経済学部に所属していたアルであったが、かなり早い段階でその机上の理論には嫌気がさしていた。大学に残るかどうか決めかねていたときに、父親が勤めていた缶詰工場でリストラの対象となった。これが決定的なきっかけとなり、アルは退学を決めた。
大学を辞めたと言っても、職の当てがあるわけではなかった。唯一アルに出来ること、と言えば音楽であった。音楽的素養は物心つく前から父親に仕込まれたものであり、アル自身は全く知らないような音楽でも、なぜか懐かしいと感じることも少なからずあった。
その素養を生かして何とか生計を立てていく、ということを考えたとき、最も手っ取り早かったのが、GHホールでの仕事であった。過去何度か出演者としてGHホールを利用したことがあり、マスターとは顔見知りだったのである。仕事がしたい、と切り出したアルに、マスターはその場で了承したのであった。
胸をなでおろすアルを制して、マスターが人差し指を立てて見せた。
「ただし、一つ条件がある。お金のことだが、歩合制としたい」
「歩合制?」
「つまり、早い話が儲かればそれだけお前のポケットにもたくさんおゼゼが入り、赤字になれば……」
「……ゼロ、というわけですね」
マスターはにやり、と笑みを見せた。
この後、マスターから機材の知識からライブハウスの経営についてまで、細かい話があった。アルは話の間中、なぜだか分からないが、気分の高揚を抑え切れなかった。
赤字になれば収入はゼロ。
親に頼ることの出来ないアルは、そうなれば首をくくるしかない。
通常では耐え難い状況のはずだが、アルにとってはまさに求めていた物に出会った瞬間であった。
その後、水を得た魚のように次から次に新しい企画を打ち出しGHホールの収益を伸ばしたアルは、今ではマスターから全権を託されるまでになっていた。そんなアルにとって、それがメジャーであろうとインディーズ、アマチュアであろうとも、GHホールの出演者は大切な商品ではあったが、それ以上の何物でもなかった。
『クリスチヌス』と『ガールズガールズ』は、GHホールの一押しバンドであり、アルもその集客力を認めていた。そして、その二つのバンドが時を同じくして空中分解、ということになった。赤字転落とまではいかないまでも、かなりの減収であることは認めざるを得ない。
そこでアルは、一計を講じた。それが、『クリスチヌス』に元『ガールズガールズ』のドラム、ティム・B加入である。音楽性の問題ではない。ただ、間違いなく話題性は大であり、一時的にでも集客があればそれでよい、とアルは考えていた。その間に次の花形となるバンドを発掘するつもりでいたのである。
一つ、アルにとっても誤算だったことが、新生『クリスチヌス』の意外な人気であった。当初、音楽性の面を考えると、ティムのドラムプレイが『クリスチヌス』には合わない、と思っていた。しかし、蓋を開けてみれば、何のことはない。まさにこの組み合わせしかない、と言えるほどの絶妙なメンバー構成となっていたのである。
アルの目から見て、ただ一つ難点があるとすれば、それはジョニーがベース兼ボーカルであることであった。
ジョニーのベースプレイ、ボーカル、単体で見た場合、どちらも全く問題は無い。ただし、そのお互いが良い意味での相乗効果をもたらしているとも感じられない。
ベースを弾くことでさらに凄みを増すボーカルも存在する。これは個人的な問題でもあり、音楽ジャンルの問題でもある。
しかし、そのどちらの面から見ても、ジョニーに関して言えば、「歌いながら弾く必要がない」とアルは感じていた。
ティムが加入し、バンド全体のレベルが上がっていくにつれ、逆にその部分が浮き彫りになってきた、とも考えていた。ティムが加入してから、3ヶ月が経過しようとしていたが、その人気は当初ほどの飛躍的な伸びは無くなったものの、依然としてGHホールを支えるバンドであるといっても過言ではない程度ではあった。
しかし、次の手を打つべき時期ではある、ということがアルの頭の片隅に常にわだかまるようになってきていた。
クリスチーナから一本の電話が入ったのは、まさにそんなおりだった。
ジョニーがバイクで転倒して腕を骨折した、という連絡だったのである。
場所を確認し、「すぐに行きます」とだけ伝え電話を切ったアルは、小さく舌打ちをもらす。
大事には至っていない、ということであったが、1ヶ月程ベースを弾くことが出来ないことは間違いない。その一ヶ月の間に、『クリスチヌス』の出演は2回予定されている。そして、当面の問題として、2日後の単独ライブがあった。
アルは道中、いかにこの危機を乗り越えるか、ということを考えていた。そして、乗り切るだけではなく、この事態を逆にうまく利用する手立てはないか、と頭を働かせていた。
「早いね」
息を切らせながらカフェの扉をくぐったアルに、ジョニーが言った。左腕にギブスを巻き、首からぶら下げている。その両隣にはサムとクリスチーナが腰を下ろしており、アルに軽く会釈した。
アルはジョニーの正面に腰を下ろし、黙ってしばらくジョニーを見つめていた。
「お茶か何か……」
痺れを切らしたのかクリスチーナが口を挟む。
その提案を丁重に辞退したアルは、ジョニーを真っ直ぐに見つめたまま口を開いた。
「新しいベースを入れる、というのはどうでしょうか。もちろん怪我が治るまでの助っ人として期間限定ですが」
ジョニーは軽く微笑んで答えた。
「……大丈夫だよ。この程度、明後日には直ってるから」
ジョニーは言うと右手でギブスをはずす仕草をして、クリスチーナに制止された。叱られた子供のように大人しくなったジョニーがアルに視線を戻した。
「2日後だぜ?」
「それは、もちろん分かっています。……だからこそ、本人の了承はもうとってあります。あとは明日一回練習で合わせれば何とかなる筈です」
「本人の了承って……」
クリスチーナからジョニーの怪我を聞いた瞬間に、アルの中では既に答えは出ていた。道中はただ、他の可能性を一通り頭の中で検索していたに過ぎない。そして、出た結論は結局、変わらなかった。
アルは意識して軽い声色を作り、言った。
「私がベースを弾く、というのはどうでしょうか。幸い『クリスチヌス』の曲は全て覚えています。あとはベースラインを今夜徹夜で覚えてきます。もちろん……ジョニーほどうまく弾く自信はありませんが」
サムとクリスチーナが驚いたような表情を見せた。一瞬遅れて、ジョニーがにやりと笑みを見せた。
アルはかつてベーシストだった。3年以上も前のことであり、アル自身口外していなかったため、GHホールの関係者でその事実を知っているのは、今やマスターと古くからの客のみであった。
「マスターには事後承諾ということでいいと思います。私の仕事なんて元々マスターがやっていた仕事ですしね」
ジョニー、サム、クリスチーナの三人に異存はないようであった。もっとも、他に選択肢が無いという状況ではあった。
「じゃあ、ティムには明日、その場で言うことにしましょう」
このクリスチーナの言葉に、サムが口を挟む。
「どうせ、今日もどこかで飲んでいるに違いないですし。ここ一週間、連絡が取れないんですよ、彼。だからジョニーの怪我の事もまだ知らせていません。まぁ、明日の練習はずっと前から知っているはずだから大丈夫だと思いますけど」
アルは頷きクリスチーナを伺う。
クリスチーナはすぐに軽く咳払いをして、視線をそらした。
「心配しなくても、私のベースは期間限定ですから」
アルは笑顔で言う。
予想に反し、クリスチーナからは要領を得ない返事が返ってきた。
ジョニーからベースを取り上げようとしていることに対して、クリスチーナが少し不快感を持っている、とアルは感じていた。そのため「期間限定」というセリフを強調したのだが、クリスチーナの表情から、その真意を読み取ることは出来なかった。
サムとクリスチーナ、ジョニーが高校時代の同級生であることは聞いていた。そして、サムとクリスチーナが恋人であることも、アルは知っていた。しかし、アルの目にはクリスチーナがジョニーの方に好意を持っているように映っていた。ただし、それが女性としての男性に対する好意なのか、アーティストとしてのジョニーに対するものなのか、アルには分からない。そして、それ以上追求するほどの興味もなかった。
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