第15話 第二章 ー7
辺りを埋め尽くす潅木が揺れるほんの些細な音にも、異様なほど敏感に反応してしまう。それが人為的な動きであれば思わず声を立てそうになってしまうほどであった。
ただ、その感覚も次第に鈍くなってきていた。慣れなのか、それとも疲れなのかは分からない。しかしはっきりしているのは、このまま隠れ続けても事態は解決しない、ということだけであった。
サムは重いまぶたを開けた。
いつの間にか、また夜が近づいてきている。かばんの中の食料も底をつきかけていた。だが、追っ手をまいたのかどうか判断できない。このまま出て行ってもむざむざ捕まるだけかもしれない。そう思うと、サムは腰を上げる気にはなれなかった。
ジャックは……
ふと、昨晩の侵入劇を思い起こす。
地下への道筋はすでにジャックによってリサーチ済みで、難なく入ることが出来た。初めは人一人がようやく抜けられる程度の細い通路が続き、それを抜けると大きな下水道へとつながっていた。
臭いがきついという難点はあったが、地下から侵入してくるということは想定されていないのか、それとも誰かが侵入してくるということ自体それほど考えられていなかったのか、拍子抜けするほどあっさりと街へと入ることが出来た。
問題は、地上へ出る場所であった、とサムは考えていた。
マンホールの出口から這い出てみると、近代的なビルが立ち並ぶ街中の交差点のど真ん中だった。いくら夜だとは言え、周囲には行きかう人もいるのである。当然、通報され追われる身となった。
ジャックは思惑通り、というような口調であったが、どうするつもりなのかと訊ねるサムを尻目に一人で逃走してしまった。サムは後を追うことは諦め、できるだけ人気のなさそうな方角へと、勘を頼りに走っていた。
幸い、と言っていいのかどうかは分からないが、追っ手の大部分はジャックの方へ向かったらしく、しばらく走ったところで立ち止まって後ろを確認したときには、ただ閑散とした暗闇が横たわっていただけだった。
どこをどう駆けてきたのか全く思い出せなかったが、サムは砂利が敷きつめられた古めかしい施設に足を踏み入れていた。遺跡のような雰囲気だ。周囲には全く人の気配は無かった。アーチをくぐり中庭のような緑に覆われた空間を見つけ、ひとまず腰を落ち着けることにしたのである。
ここまでが、昨夜のことである。それからほぼ一日が経とうとしていた。その場を微動だにしなかったことについて、もっともらしい理由はつけていたが、それは全て自分に対する言い訳に過ぎないと心のどこかでは分かっていた。それでも、行動には移せなかった。そのタイミングを嗅ぎ分けることが、サムには出来なかったのである。
と、かすかにではあるが、遠くからわさわさという草木が擦れ合うような音が聞こえた。それは次第に近づいてくるようだ。風のせいかもしれないと思いしばらく息を潜めていたサムの耳に、地面を踏みしめるような規則的な音が届いた。サムは手のひらを握り締めると、そのまま体を固くした。
足音が、サムの視線の先数メートルの位置で、止まる。目を凝らしてよく見てみると、かすかにではあるが、人が動く気配が感じられた。
幸いといって良いのか、それとも運が悪かったのかは分からないが、足音の主達はその場でとどまったようであった。こそこそと、何事かを話し合う声が聞こえた。どうやら一組の男女のようであった。
話の内容までは聞き取れなかったが、男女がわざわざ夜中にこのような場所でしなければならない話といえば、色恋沙汰以外には考えられない。とすれば、長時間となる可能性が高い。
そこまで考えて、サムは一度大きく息を吐き出した。音を出さないように気をつけながら、少し体の位置を変えてみる。そこでしばらく様子をうかがったが、男女が辺りに不信感を抱く気配は感じられない。もう少し大胆に動いてみた。ちょうどいい位置を見つけ、そのまま体を固定した。
サムは目を閉じ、しばらくはその男女の話し声に耳を傾けていたが、その声自体が次第に自然の一部と化し、全く気にならなくなっていた。
ふと、昔のことが頭をよぎった。
滅多に旅行などには行かないサムであったが、一度だけジョニー、クリスチーナと共に山へキャンプに行ったことがあった。高校の卒業旅行であった。
キャンプ場備え付けのコテージを予約し、電車とバスを駆使してそこまで赴いた。当初の予定ではジョニーがそれまでに車の免許を取得して、それを使うことになっていた。
だが、ジョニーは教習所の教官と喧嘩になり、志半ばで放り出してしまったため、急遽公共の交通機関を利用することになってしまったのだ。結局ジョニーが免許を取ったのは、それから約2年後のことであった。
クリスチーナは今どうしているだろうか?
サムは日本へと思いを馳せる。
出国の前日まで当然クリスチーナも同伴するものとばかり思っていた。彼女が日本に残るということは、バンド全員の前で始めて聞かされた。他のメンバーは別段興味も無さそうであったが、サムは一人衝撃を受けていた。つまり、秋のイベントがあるまで約半年間クリスチーナに会えないということである。
なぜ、もっと事前に伝えてくれなかったのか、サムには理解できなかった。そして理解できないまま日本を発つ時間となり、特に言葉を交わすこともなく見送られ、それきりだった。
アルが加わってから半年間でオリジナルCDを一枚作成していたため、クリスチーナは今その売り出しに追われているのだろう。それで、暇が無かったのだ。サムはそう考え納得することにしていた。
耳元で、ばきっという破砕音がした。
サムは思わず顔を上げた。瞬時に音の方向へと視線を向ける。
自分が右手を置いていた枝が折れているのを確認したのとほぼ同時に、「誰!?」という甲高い叫びがサムの耳朶を打った。
飛び起きたサムは、こういう時こそ落ち着かなければいけない、というどこか本で読んだことのあるフレーズを脳裏に浮かべながら、それとは関係なく体は叫び声と逆方向へと向かっていた。ただ怖かったのである。
しばらく無我夢中で草木をかき分けていく。見つかってしまったのだから、今さら音を出すことをためらう必要はない。サムは目の前をふさぐ木々を豪快に掻き分けながら、ただひたすら真っ直ぐに進んでいた。
どれほどの距離を進んだのか自分では判断できなかったが、次第に冷静さを取り戻したサムは一度立ち止まった。背後を伺うが、追いついてくる気配はない。サムは少し進む方向を変え、音を立てないように道筋に痕跡を残さないように、そっと枝を振り払いながら進んだ。
どうしようか、と思考を開始した瞬間、かばんが無いということに思い当たりサムは愕然と立ち止まった。
かばんをその場に置いてきてしまったのである。当然、身元が分かるような物もいくつかは入っているのである。
事の重大性がじわじわとサムの体中に回り始める。何とかしなければ、という焦りとは裏腹に脳味噌はその回転数を落としていく。思考が麻痺し、このまま両手を上げて捕まってしまった方がいいのではないか、ということまで考え始めた刹那、
「逃げろ」
という押し殺したような声と共に、足元に何かが投げ落とされた。
何が起こったのか瞬時には判断できず、しばらく足元に戻ってきた自分の荷物を見つめていたサムであったが、
「早く!」
と、今度は少し苛立ちを含んだような声が耳に届き、すぐにかばんを抱えてひたすら前へと進む。
何が起こったのか、サムは考えるのをやめた。とにかく、逃げろと言われれば逃げるだけである。
と、前方に壁が見えた。
一瞬辺りをうかがうが、扉らしきものは見当たらない。
サムは壁伝いに右手へと進み始めた。特に理由があったわけではないが、強いて言えば、そちらの方が奥まっていたということだった。つまり、角に突き当たれば何らかの抜け道があるのではないか、という希望的観測である。
角に突き当たったサムは、自分の予想が見事に的中したことに驚いたが、その扉の前でしばらく立ち尽くすことになった。扉の向こうには一体何が待ち受けているのか、全く想像もつかない。ひょっとしたら外へと出られるかもしれない。しかし、そのまま住人に見つかり、あえなく捕まってしまうということも大いにありえるのである。
ドアノブを持つ手が震えていた。
額から流れ落ちる汗が、目に入り視界がにじんだ。
サムは、一度ドアを手放し、顔全体をぬぐった。髪を後ろへと流す。
どちらにしても、ここから進むしか道はないのである。そうである以上、一刻も早くこの場から逃げた方がいいに決まっている。サムの理性はそう訴えていたが、体は震えていた。
――現実は、こんなものか。
サムは自嘲する。
怒りにも似た焦燥が体中を駆け巡る。自分に対する憤りだった。
サムは一度思い切り頬を平手で打つと、その勢いのままノブをひねり、扉を開いた。
中は薄暗く人の気配はない。サムはほっと息を吐き出し、そのまま足を踏み入れた。後ろ手にドアを閉める。
ドアの近くの壁に手をさまよわせ電気のスイッチを探すが、何も取っ掛かりはない。
サムは諦めて手探りで前へと進む。
すり足で数メートル。サムの手に、金属製の棒のようなものが触れた。ゆっくりと手を這わせていくと、布に手が触れた。質感から織物のようであった。
サムが感触を確かめていると、がしゃん、という何かが割れるような音が周囲に響き渡った。思わず身を縮めたサム。意味はないことは分かっていても、自然と目を閉じていた。
空間に静寂が戻ってきた。
サムはしばらく様子をうかがっていたが、ゆっくりと足を踏み出した。と、自分の右手に何かを握り締めていることに気付いた。先程の金属の棒についていた織物だ。物音の瞬間に意識せずに破り取ってしまったのだ。
がしゃ、という今度は控えめな音が、再度サムの耳朶を打った。
誰かがいることは間違いない。
サムは手の中の布切れをズボンのポケットに押し込むと、先へと足を踏み出した。
目を凝らすと、うっすらとではあるが、周囲の様子が確認できるようになってきた。目が慣れてきたこともあったが、奥から届く弱い明かりの効果もあるだろう。
建物自体、全て石で出来ているようであった。壁に触れると、微細な砂粒のようなものが手に付着した。石灰のような感触だった。この建物の中に入ってからのことを思い出すと、すべての明かりは電気ではなく自然の火を利用していることに思い当たる。
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