猫と鰯のロケンロール

高丘真介

プロローグ

 ゆっくりと一定のリズムを刻んでいた波が、突然さわさわと揺らめき白い飛沫を立て始めた。男はうずしおか、と呟き腰を上げる。海面の泡立ち方が、この海域で頻繁に起こるうずしおに酷似していたのだ。

 男は船の手すりにもたれかかり水面を覗き込む。一人乗りのその船は重心の移動に耐えられず、男の側に少し傾いだ。

 闇に包まれた夜明け前の海面には、いつも通りの白い泡がたゆたっていた。ただ、泡の細かさがいつもと微妙に異なっている。彼は一瞬そう感じたが、すぐに興味を失った。


 男は手すりから身を起こし顔を上げ、かすかな輪郭をとどめる陸地の影をしばらく眺めたあと、身を翻し座椅子に戻る。傍らに立てかけていたアコーステックギターを膝に乗せ、先程から繰り返していたコード進行をもう一度確認する。3つのコードから成る単純なものだ。彼はそのコードに合わせてメロディーを口ずさむ。  

 陶酔する彼の脳裏からは、まず座椅子が消え失せた。次に、船体が消えた。彼は一人、何も無い海の上でただよいながら曲を奏でている。体を包む衣服が意識の中から消滅し、ギターさえも消えた。自分という存在すら消え、ただ一群の旋律となって波間を漂う。


 東の空から筋状に光が差し込み始め、男は我に返った。ピックをギターの弦に挟み、ギターを置く。彼は立ち上がり、傍らに無造作に畳まれていた網を投げた。

 彼にとってはギターを弾くことも、投網を海に投げ入れ魚を捕ることも、同義であった。魚を捕り生計を立てるためというのはただの建前で、刻一刻と表情を変える海に網を投げ入れることは、彼にとってはそれだけで至福の瞬間だったのだ。

 男のそんな思いとは裏腹に、その日は過去例に無いほどの大漁だった。



 息子が帰ってきたのは、改心したわけでも和解を求めていたわけでもなかった。一瞬は我が息子の良心に期待した男であったが、すぐに真実を悟った。

 妻は満面の笑みで迎え入れた。おそらく本心から、息子が帰ってきたことを喜んでいるのだろう。息子を受け入れるかどうか、男は逡巡していた。

 必死で止める両親を振り切ってまで家を出て、大阪で一人暮らしを始めたのも息子の勝手であり、帰ってきたのも息子の勝手だったのである。


「もう一度漁に出たい」


 息子はそう言って男に頭を下げた。

 妻は泣いて喜んだが、男はうなだれる息子をしばらく黙って見つめていた。

 大阪で息子がどんな仕事をしていたのか、男は知らない。ただ、失敗したということだけは明確だった。

 息子は顔を上げない。

 妻が男を見上げ、目で訴えかけている。

 どれほどの理由があろうとも、結局自分は息子を受け入れることになる。このことは息子が帰ってきた瞬間から、男には薄々分かっていた。どれだけ理性が拒否しても、今目の前で頭をたれている人間は、紛れもなく男の息子なのだ。これ以上の理由はない。

 男は、勝手にしろ、と呟き息子に背を向けた。



 昭和三十一年、男は食品関連の会社、『鰯社』を設立した。

 波の泡立ちに違和感を覚えたあの日以来大漁が続き、男の手許には思いがけずにある程度の資産が残り、息子の勧めで会社を作った。ただ、名目上は男が社長であったが、会社経営自体は実質上息子が取り仕切っていた。漁一筋でここまできた男にとっては当然の成り行きではあった。

 息子はどこからか呼び寄せた若者数人を会社の社員とし、漁を続けていた。男がノウハウを教えたとは言え、彼の息子の漁獲量は今や男の想像をはるかに超え、ある意味異常であるとさえ言えた。いつからか息子は男に無断で会社を動かし始めた。男はそのことに関しては何も言わなかった。興味が無かったのである。


 男は相変わらず一人で漁に出てギターを弾き、投網を投げていた。今となってはただの娯楽としての漁である。大漁の時もあれば、からっきしの時もある。それで良かった。



 設立当初こそ従業員は十名に届かず細々と鰯を出荷していた『鰯社』であったが、数年でその規模を数十倍にまで拡大した。


「瀬戸内海に覇権を打ち立てる」


 三十を過ぎ腰まわりに貫禄をつけた息子が豪語したこの言葉に、男は思わず苦笑した。息子は聞こえなかったのかそれとも聞き流したのか、男にはそれ以上何も言わなかった。言葉を交わす必要もない、そう思っているように感じられた。


 この頃になると会社は完全に男の手を離れていた。男には会社がどのような事業を行っているのか理解することが出来なかったのである。彼の中では金儲けのシステムは一種類であった。鰯一匹で数百円の金が入り、十倍なら十倍の対価、千倍なら千倍、単純で明確な、唯一無二のシステムであった。鰯の値の変動により時に若干の上下はあるものの、根本原理は変わらない。


 鰯の大漁捕獲(もはや乱獲であるが)に成功した息子は、この頃からその資金を使って、周辺の漁業組合を『鰯社』に取り込んでいった。その勢いはとどまる所を知らず、ついには瀬戸内海で漁業をするには事実上『鰯社』の許可が必要であるという、男にとっては信じがたい状況が訪れた。


 息子は国捕り合戦をしているのか? 


 男は相変わらず一人で漁業を続けていた。一時期ほどの大漁に恵まれることはなくなったが、それでも全く捕れないというわけでもない。しかしこれが普通だ、と男は感じていた。

 デッキに横になり、一人ぼんやりと夜の海を眺めていると、ふっとあの時の情景が脳裏をよぎる。波に違和感を覚え、そして初めての乱獲をした、あの朝の風景だ。

あの時から、全てが変わった。


 息子が帰還し、家には金が余り、『鰯社』が設立された。

 そして、瀬戸内海は暗黒時代に突入した。

 ここまで考え、男は自嘲気味に笑う。


「瀬戸内海に覇権を打ち立てる」


 この息子の言葉が現実のものとなった。男にとっては嘲笑に値するほど馬鹿らしいセリフだった。

 今や『鰯社』のトレードマークとなっているかわいらしくデフォルメされた笑顔の鰯にも、生理的嫌悪感を禁じえない。鰯のさわやかな笑顔などあるわけがない。口を開き無表情で海中を旋回する鰯のグロテスクさを、息子は知らないのだ。そんな人間など、かつてなら「海の男失格」の烙印を押されるところだ。


 ただ、「海の男失格」としても、世間には受け入れられた。そして、瀬戸内海の漁業にたずさわる人間の中で知らぬものはいないとまで言わしめる程の存在となった。その状況こそが、息子の望むところだったのだ。


 男は、目を閉じ思考を中断する。

 そんな時、脳裏をよぎるのは乱獲の映像だった。

 彼の常識を覆した大漁の原因は何だったのだろう?

 男の頭の片隅に埋もれていたこの問いが、時を経て次第に熟成されつつあった。

 一時的な自然現象、とは片付けられない。男の船は規模相応の水揚げ量に戻っていたが、息子は相変わらず乱獲を続けていた。まるで世界中の鰯を吸い付ける磁石でも持っているかのように、その漁獲量は衰えるところを知らない。

 その秘密を、息子は知っているのだ。

 閉じたまぶたの上から光を感じ、男は薄く目を開けた。

 いつもと変わらぬ船上の夜明けが訪れた。



 昭和三十五年、男の妻が死んだ。

 男は周囲の人間に訝しがられるほど、冷静な対応をしていた。通夜から出棺まで、全ての作業をただ淡々とこなしていたのである。

 妻の死因の一端は、間違いなく男にあった。

 この数週間前、男は漁から帰り、陸地に上がった瞬間記憶を失った。周りの人間の話によれば、白目を剥き海中に崩れ落ちそうになった男を、間一髪、彼の息子が抱きかかえて事なきを得た、ということであった。この後しばらく体調不良を訴えた男を、彼の妻が寝ずに看病したのだった。医者によれば、男の妻の死因は極度の疲労であった。

 親類、特に妻の側の親戚は当然男には冷ややかな視線を向けたが、男は実に冷静に対処した。ある種異様な男の振る舞いに、嵐の前の静けさか、と身震いし、恐怖の目をする人間すらいた。

 男は無宗教であったが、人の生死に対しては、他人とは違った考え方をしていた。彼にとって、死はそれ自体悲しむべきものではなかったのである。むしろ、体調を崩してから漁を禁止された男は、それでも自分が生きていることの方を忌むべき事態と考えていた。


 それからちょうど一年が経とうとしていた矢先、男に初孫が誕生した。

 知らせを受けたとき、男はおもむろに腰を上げ、奥の古びた倉庫に向かった。

 立てつけの悪くなった引き戸を縦横に揺らしながらずり開け、中の埃まみれの一群に目を向けた。

 こげ茶色に変色したそのギターの弦には、昔使用していたときのままピックが挟まれていた。一年ぶりにギターを抱え上げた男は、どこかから漂ってくる潮の匂いを、確かに肌に感じていた。

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