第1話 第一章 -1

 アル・P・小杉(以下アル)に呼び出され久しぶりにGHホールに赴いたサム・R・田中(以下サム)であったが、その予想すらしなかった提案には即答できずにいた。


「あのティムを後任のドラムとして加入させてはどうだろうか。幸い、ティムはつい先日バンドを脱退している」


 知っているでしょうが、という一言を付け加えたアルは、真っ直ぐにサムの目を見つめてきた。サムはさりげなく視線をそらし、しばらく検討する時間をくれ、と小声で答えるのが精一杯であった。


 昭和四十年代後半、日本のロック界では、あまりにも現実から解離し過ぎたテーマを掲げたその当時の大御所バンドへの反発から、逆に一般市民密着型のバンドが乱立した。

 そのブームの先駆けともいえるバンドが、あの『割れない眼鏡』である。当時の感覚からすれば、おおよそバンド名とは考えられないようなネーミングであるが、逆にそれが受けたのか、着実にファン層を広げていった。さらにそのフォロワーとして、『減らない消しゴム』『尽きぬ話題』を挙げることが出来るが、いずれも一定の成功を収めている。ちなみに、『はねない便器』もその一派であると見る向きもあるが、それは間違いである。


 昭和五十年代に入ると、『割れない眼鏡』らの生活密着型バンドに物足りなさを覚えた当時の若者達は、新しいロックを模索し始める。サムはその若者の中の一人であった。

 まず、真っ先に挙げるべきバンドは『曲がった胡瓜』である。彼らは『割れない眼鏡』らへの問題提起という意味で話題を呼んだ。さらにその当時の日本の右肩上がりの経済成長へのアンチテーゼである、と唱える評論家もいるが、『曲がった胡瓜』のボーカルであり、彼らの楽曲、歌詞、全てを支えていた男が自殺したことで、全ては闇の中となった。

 その後、『借金返済前』『消えない爪跡』といったバンドが登場したが、いずれも当時の民衆の心を掴むことなく、シーンを去っていった。

 そしてその後、『割れない眼鏡』も『曲がった胡瓜』も共にくだらない、バンドに意味など必要ない、という動きが現れたことは周知の通りである。

 サムがその当時結成したバンドを『クリスチヌス』と命名したのも、まさにそのような時代背景あってのことであった。


 現在、その『クリスチヌス』はドラムの脱退により活動停止の状態にある。新ドラマーの加入のめどは立っていなかったが、サムは焦る必要を感じてはいなかった。多少時間がかかっても新メンバーはじっくりと選ぶべきだ、というのがサムの意見であった。

 一方、ティム・B・中ノ島(以下ティム)が以前所属していたバンド『ガールズガールズ』を脱退したのは業界では有名な話であったが、正確に言えば脱退ではなく解雇である。

『ガールズガールズ』はその名の通り、ドラムのティム以外、ボーカル、ギター、ベース共、女性である。そしてティムはこともあろうにバンドのボーカルの女に手を出した、という話である。

 公式には「音楽性の違い」を理由にティムが自らバンドを去ったということになっているが、バンド内の女関係が絡んでいることは間違いない、というのが専らの噂であり、またサム自身もそう確信していた。


 初めてティムのドラムプレイを見た人間は、その強烈な存在感に圧倒される。それはサムも認めていた。だが、圧倒され、その後魅了される者も確かに存在する一方で、その派手なタム回しに生理的嫌悪感を覚える者も少なからずいた。サムは後者であった。


「ま、すぐには結論を出さなくてもいいですが、考えておいて下さい」


 奥からの呼び出しを受けたアルはそれだけ言い残すと、サムの返答を待たず、すぐに身を翻しミキサー操作に戻っていった。

 サムがGHホールでライブをするようになる以前から、アルはこのライブハウスで働いており、今ではGHホールの音響関係全体を掌握する立場になっているようであった。サムはアルの作り出す音、会場の雰囲気、そしてその人柄全てに尊敬の念すら抱いていた。だからこそ、アルの口から出てきた「ドラムとしてのティム・B加入」の提案には完全に意表を付かれた。


 一人取り残されたサムは、一度は階段を降りてその場を去りかけたが、一瞬の躊躇の後、おもむろに身を翻した。アルの姿を横目に見ながら受付を通り過ぎ、場内に足を踏み入れた。

 この日、GHホールはある大学のサークルの貸切りとなっており、そのせいか、客席は閑散としていた。サムは隅の席に腰を下ろし、ステージに目を向けた。

 サムがしばらく眺めていると、垂れ流されている流行のロックがフェイドアウトで消え去った。場内が闇に包まれ、幕が開く。

 レッドツェッペリンのコピーだ。

 サムはギターパートを凝視する。サム自身、何百回と繰り返し奏でたリフだ。

歌が始まる瞬間、どこからかボーカルが飛び出してきた。


 しばらくは黙って耳を傾けていたサムであったが、3曲目の途中で席を立った。

 耳に障る金切り声に耐えられなくなったのだ。


「ジョニーなら」


 この言葉にサムは振り向く。

 ステージに顔を向けていたGHホールのマスターが、にやりと笑みを浮かべながら、続けた。


「ジョニーなら、もっと上手く歌えるだろうな」


そのサングラスの奥でどんな目をしているのか、サムには分からなかった。


「いらしてたんですね。全然気づきませんでした」


 サムが軽く会釈しながら言うと、マスターは外でというジェスチャーをして背を向けた。サムはその後に続いた。


「ジョニーは最近どうしてる?」


 会場を抜け、踊り場のベンチに腰掛けたところで、マスターが唐突に口を開いた。

 サムは首をひねり軽く笑う。

 マスターはそうか、と一言口にして黙りこんだ。

『クリスチヌス』のベース兼ボーカルであるジョニー・D・森本(以下ジョニー)とは、サム自身、2ヶ月以上連絡を取っていない。傍から見ればいつ空中分解してもおかしくない状況ではある。

 サムはちらと横目でマスターを伺う。

 マスターは口髭を手で触りながら、突然、にやりと唇の端をゆがめた。

サングラスで隠された視線の先に、何かその行為に値するほどの奇異な物を発見したのかもしれない。

 サムはこう考えて納得しておくことにした。

 これ以上詮索するほど彼にとって興味があるわけでもなかった。ただの唇の痙攣かもしれない。

 マスターは座り込んだまましばらく黙っていた。

 サムは席を立つわけにもいかずそのまま隣に座っていたが、ふと、『クリスチヌス』のライブで初めてGHホールに足を踏み入れた時のことを思い出した。

 その時もマスターはこのベンチに座りこんでいて、サムの自己紹介に対して振り向きはしたもののしばらく黙りこんでいたのだ。痺れを切らしたジョニーが返事を待たずに通り過ぎようとした瞬間、


「うん、知ってる……ずっと前からね」とマスターが呟く。

「そうか」と振り返ったジョニー。


 そのあと二人でしばらく見つめ合い、かすかに笑みを浮かべていたようであったが、この事があってから、GHホールに赴くたびにジョニーとマスターは言葉を交わすようになった。対照的にサムは軽く会釈する程度で、マスターは相変わらずじとっとした視線をサムに送り、時折にやりと笑ってみせるだけだった。

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