第10話 祖父の番

「ただいまぁ……」

 サトの小さな声が、しんとした家の中の空気を震わせた。

 今日は友人と夕飯を食べてから帰宅すると、祖母には電話で伝えてある。時刻は夜九時を過ぎていた。

「ばあちゃん達、寝るの早いからなあ……起こさないように静かにしようっと……」

 サトはなるべく足音をたてないように洗面台に向かう。まだ完全には慣れていないコンタクトレンズを外す為だ。

「……取れた……よし、昨日よりは時間短縮できたぞ!」

 無事にコンタクトレンズを外したサトは会心の笑みを浮かべ、脇に置いておいた愛用の眼鏡を掛けた。

「……お風呂に入るか……部屋着取りに行ってと……」

「おかえり、サト」

 独り言をつぶやくサトの背に、静かで温和な祖父の声がかかる。

「あっ、じぃちゃん……ごめん、起こしちゃった?」

「いや、お前がちゃんと帰ってくるか心配でな……一応嫁入り前の娘じゃしのう……で、今日もデートか?」

「一応ね……残念ながら、今日は女友達とデートだよ」

 サトは祖父の台詞に苦笑いを浮かべた。

「そうか……ところで、ワシに順番が回ってくるのはいつなのかのう?」

 目を細める祖父の言う順番とは、レンとの擬装結婚を説明する事だ。まずは父に話そうと決めた先日のサトが、聞きたがる祖父に順番だから待てと言ったのだった。

「……親父からなにも聞いてないんだ……」

 サトは呟くように言った。

「コジロウの奴は昔から寡黙過ぎて、何を考えているのかわからん」

 祖父は小さくため息を吐いて言った。

「そうだよな、親父はそういう性格だからな……私が男と会う理由がわからないままじゃ、いつまでも気になるよね?」

 やはり黙ってはいられない、とサトは覚悟を決める。

「じいちゃんには怒られそうな気がするんだけどさ……結婚するっていっても、擬装なんだ。向こうの余命宣告を受けた父親を騙す為にね」

 しばしの間、二人の間に沈黙が流れる。それを破ったのは祖父の深いため息だった。

「……なぁんじゃ……ひ孫をこの手に抱けるかとほのかに期待しとったのに」

「……ごめんじいちゃん……その期待は捨てて」

「いや、ワシゃ捨てんぞ。事態はいつどこで変わるかわからんからな」

 罪悪感を顔に浮かべるサトに、祖父はニヤリと笑った。

「まあ詳しい事情は知らんが、サトはその男の事をどう思っとるんじゃ?」

「え? どう?」

 祖父に問われ、サトはうーんと考えこんだ。

「好みややり方の押しつけがひどい。あと、なに考えてるのかわからない。あいつ、ほぼ無表情だから」

「ほうほう、コジロウと似とるのぅ」

「いや、親父よりあいつの方がひどいよ」

 にこにこと笑う祖父に、サトは微かに眉根を寄せて言った。

「コジロウには、お前に娘としての情があるからの……その男にはまだ何もないんじゃろ。もちろん、それはお前にも言えることじゃ……サトにはこの先、その男を好きになりそうな要素はなにもないんか?」

「要素……」

 サトは再び考え込む。

「多分、漫画の好みは似てる……と思う」

「そうか、相手の好きなものを否定しないところは良いところじゃな」

「いや、女がそういったのを読むんだなって言われたよ」

 祖父は勿論サトが青年漫画好きであることを知っている。

「それはただ本当に知らんかったのじゃろ? 共通の趣味があるということは、近づく要素ありっちゅうことじゃ……期待しとるぞ、サト」

 祖父は不満顔のサトににこりと微笑んでみせた。

「えぇ? いや、偽装だからね? 一ヶ月後に向こうのお父さんに会ったら、もうそこで終わるんだから」

「うんうん、わかった。ばあさんには適当に言っとくから安心していいぞ。じゃ、おやすみ」

「あっ、うん……ありがとう、おやすみ……」

 くるりと背を向ける祖父にそう言いながら、サトの胸の内にはなにかモヤモヤしたものが残ったのだった。

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