第38話 同情と愛情

「ただいまぁ……」

 水族館から帰宅したサトの声が、しんとした天貝家に響く。

「……今日は遅くなっちゃったからなぁ……とりあえず部屋着に着替えてこよう……」

 サトはぼんやりと呟きながら、自室のある二階へ続く階段を登り始めた。

「おかえりなさい、サト……今日は遅かったのねぇ」

 その背に穏やかな祖母の声がかかる。

「あ、ばあちゃん……うん、水族館遠いから時間かかっちゃってさ……」

 サトは祖母を振り返り、ちらりと腕時計を見た。

 時計の針は八時を示している。

「サトの分のご飯あるけど、食べる?」

「うん。もう、じいちゃんとばあちゃんはご飯食べたんでしょ? 後は自分でやるから大丈夫だよ」

「サトの話を聞きたいから、準備しながら待ってるわよ」

 祖母はにこにこと笑いながら言うと、ダイニングへと姿を消した。

「……じいちゃんもいるのかな……それだと落ち着いてご飯食べられないんだけどな……」

 サトは小さくため息を吐きながら、再び足を動かし始める。

 部屋着に着替え、水族館で祖父母にと買ったペアの湯呑み茶碗の箱を手にしてサトは階段を降りる。

「……じいちゃん、いるかな……」

 サトはそっとダイニングを覗くが、見えるのは台所に立つ祖母の背中だけだった。

「……良かった、いないや……」

 サトはホッと安堵のため息を吐いてリビングに足を踏み入れる。

「おじいちゃんは囲碁仲間の人達と呑みに行ってるからいないのよ……良かったわね、落ち着いてご飯が食べられるわよ」

 祖母は笑顔で温め直した煮物と汁物をサトの前に並べる。

「ほんとだよ……じいちゃんになにか聞かれるんじゃないかと思うとさ、気が気じゃないんだよね」

 サトは渋面を作って席についた。

「そうねぇ……おじいちゃんはサトの事となると一生懸命だからね」

 サトの言葉に苦笑しながら、祖母はサトに白米を盛った茶碗を差し出した。

「ありがとう……あ、これ、水族館のお土産だよ……いっただきまぁす」

 サトはテーブルの上に置いた箱を祖母に渡すと、祖母の手料理に手をつけ始める。

「まあ、悪いわねぇ……何かしら?」

「気に入ってもらえるかはわからないけど」

「あら、かわいい湯呑み茶碗!」

 箱の中を見た祖母がにこりと笑った。

 水色とピンク色の湯呑み茶碗には、沢山の白い小魚が描かれている。

 それは、水族館の大水槽でサトが目を奪われたものだ。まるで形を変える銀色の帯のように見えた、小魚の群れである。

「ありがとう、サト。大事にするわね」

 祖母は箱を元のように戻しながら言った。

「うん、ちゃんと使ってね」

 サトは味の染み込んだ根菜を口に放り込みながら笑った。

 物を大事にしすぎる祖母の性格を知っているのだ。

「飾って終わりになんてしないでよ」

「でも、なんだか使うのがもったいないような気がするわ」

 祖母は自分とサトにお茶を淹れようと立ち上がる。

「いやいや、使ってこその道具だからね」

「まぁ、そうなんだけれど……おばあちゃんそそっかしいから、すぐに割っちゃいそうでねぇ」

 ポットから急須にお湯を注ぎながら祖母は呟いた。

「そしたら、また新しいのを買ってあげるよ」

 サトは心配する祖母に苦笑する。

「……今日はどうだった? 水族館、楽しかった?」

 コポコポ、と音を立てて祖母の手の中の急須から二つの湯呑みに茶が注がれる。

 ゆったりとした祖母の言葉が、じんわりとサトの胸の内に広がった。

 水族館で体験したことはたくさんありすぎて、そのすべてを言葉にするのはサトには難しかった。

「……うん……色んな魚がいたのも、ショーも楽しかったよ」

 サトは少しだけ考え込んで、ようやくその言葉だけを口にする。

「……そう……良かったわねぇ」

 ことり、祖母はサトの前に湯呑み茶碗を置いた。

「……ごちそうさまでした」

 サトは食べ終えた食器を台所に下げ、再び席に戻った。その正面では祖母がお茶をすすっている。

「ねぇ、ばあちゃん……」

 ぽつり、サトは祖母に話しかける。

「なあに?」

「急に変なこと聞くけどさ……」

 サトはあたたかな湯呑み茶碗を手に、おずおずと祖母を見た。

「あの……じいちゃんとばあちゃんはさ……なんで一緒になったの? やっぱり……好きだから……だよね?」

「……ふふっ……そうねぇ……もちろん、今はおじいちゃんの事好きだけどねぇ」

 祖母は穏やかな目でサトを見た。

「……そんなことをサトから聞かれる時が来るなんて、サトも本当に大きくなったのねぇ」

「えっ……あ、ご、ごめん……」

 サトは少し気まずそうにお茶を口にした。

「いいのよ……おじいちゃんはね、若い頃はちょっと血の気が多い人だったの……」

 祖母は当時を思い出すかのように目を細めた。

「あの頃、おじいちゃんの周りにあまり人は寄りつかなかった。おばあちゃんはね、おじいちゃんが通ってた剣術道場の娘でおじいちゃんの幼なじみだったの。小さい頃はよくケンカを止めたり怪我の手当をしたりしたのよ」

 剣術道場の娘、という部分にサトは一瞬ドキリとする。

「おじいちゃんのお父さんは、子供を大切にする人じゃなかったの。働いてはいたけれど、それをほとんど自分の好きなことに使ってしまってね……家族の為に働くお母さんを助けようと、おじいちゃんは若いうちからよく働いてた……おじいちゃんには、妹もいたしね」

『母さんには母さんの人生があるように、お前にはお前の人生がある。どんなに辛くても、他人の人生にお前の人生を振り回されちゃいかん』

 サトは、昔ヤジロウからそう言われた瞬間を思い出す。

 母が戻ってくるようにと、家出しようとしたのを止められた時だ。

「あの言葉は……じいちゃん自身の体験から出たものだったのか……」

 サトは真顔で呟いた。

「おじいちゃんは働いてはクビになって、を繰り返してたの。なんでかわかる? サト?」

 祖母は苦笑いを浮かべながらサトに問う。

「えっ……と……ケンカした……とか?」

「そう。歳の若いおじいちゃんは、他の働く人達と同じ扱いをされなかった。それが気に食わなくて、上の人と揉めてクビになっちゃう。おばあちゃんも何度か説得したりしたんだけど、それでもやっぱり辛抱できなくてね」

「……じいちゃんらしいや」

 サトは思わず笑みをこぼす。

「あまりにそれを繰り返すものだから、おばあちゃんのお父さん、つまりおじいちゃんにとっては剣術の師匠が見かねて、『うちで働け』って言ったのよ」

「そっか……それでばあちゃんと……」

「ううん、ばあちゃんはね、お見合いで他の人と結婚するはずだったのよ……それがね」

 祖母は可笑しそうにクスクスと笑った。

「お見合いの席に突然現れて、お見合い相手のいるその場で私に『一緒になってくれ』って言ったのよ」

「えっ……」

 サトは目を丸くした。

「おばあちゃんびっくりしちゃってねぇ、『なに勝手な事言ってるの!』って怒ったのよ。そしたら、おじいちゃんが土下座して言ったの……『俺には、お前しかいない』って」

 頬杖をついて微笑む祖母を、サトはぼんやりと見つめた。

「……なんか、納得しちゃったのよね……あぁ、そうだった、この人には私しかいなかった、って……だからねぇ……」

 祖母はサトを見つめる瞳を細める。

「最初は、愛情じゃなくて同情だったの……でもおじいちゃんは働き者だったし、私の事も子供達の事もとても大切にしてくれた……今はとても幸せだし、おじいちゃんの事好き? って聞かれたら大好きって答えられるわ」

「……そっか……」

「……今の話、参考になったかしら?」

 祖母はにこりとサトに微笑みかけた。

「うーん、どうかな……でも、話を聞けて良かったよ。ありがとう、ばあちゃん」

 サトはごまかすように微妙な笑みを浮かべる。

 とその時、ガタンと玄関の方で音がした。

「うぉおい、帰ったぞぉ!」

 明らかに酔っ払っているヤジロウの通る声が、ダイニングまで届く。

「あ、面倒なのが帰ってきた……」

 サトは眉根を寄せて肩を竦める。

「……お風呂に入っちゃいなさい、サト。後はおばあちゃんに任せて」

「うん……ありがとう」

 サトは笑顔を祖母に向けるとさっと立ち上がり、こっそりと風呂場へと向かう。

 それを見届けた祖母は冷たい水の入ったコップを手に、玄関で座り込んでいるヤジロウの元へと向かったのだった。

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