第39話 レンの母親

 私は誰より幸せだと思っていた。

 お見合いだったけれど、結婚して一人息子が生まれ、大病もせずにすくすくと育った。

 夫からは、色々と要望を言われていたけれど、そのすべてをそつなくこなしてきた。

 行ってらっしゃい、と夫と息子を見送った後、深い安堵と共に胸に広がる虚無感。

 それに気がついた時は、単に少し疲れているだけだと思っていた。

 けれど、どれだけ時間が経ってもそれは変わらなかった。

 一度気づいてしまったものは、もう知らないフリができなかった。

 ぼんやりと街を歩いている時に、あの人に出会ってしまったのがいけなかった。

 ……いけなかった、のだろうか?

 心から安堵し、楽しいと思っていた時間はとても短く感じられた。

 夫の言うことに従順な良い妻、穏やかに子供に微笑みかける優しい母親。

 そうでなければならない。

 自分で自分に与えたその枷から逃れられる、ほんの僅かな時間。

 後ろめたい気持ちより、開放感に酔いしれたい欲望が勝ってしまった。

「父さんのこと、嫌いになったの?」

 不安で満ちた息子の瞳を見た瞬間、一気に暗闇に突き落とされた。

 ……私が何より大切に思う息子を、暗闇に突き落としたのは私だ。

 後悔はしないと決めていたはずの心は、あっけなく崩れ去る。

 どんなに謝っても、傷つけてしまったあの子の心は元には戻らない。

 これは罰だ。

 だから、どんなに胸が痛んでも、私は笑顔を絶やさずあたたかな食事を作り続ける。

 何より大切な、たった一人の息子の為に。


「ねぇ、向こうのお母さんになんて挨拶すればいいと思う?」

 サトは緊張した面持ちで、一緒に朝食をとり終えた祖母に訊ねる。

 既に外出の準備は整い、後はいつもの待ち合わせ場所に遅れないよう向かうだけだった。

「……そうねぇ……この間着てた可愛い服の方が良かったんじゃない?」

 祖母は微笑みながら、あたたかなお茶をサトに差し出した。

 今日のサトの服装は、一巡して初回の擬装デートの時に来ていた服の組合せだ。

 それは、ブラックのトップスとダークグリーンのロング丈のマーメイドスカートだった。

「えっ、服の話?」

 サトは茶を口に運びながら、祖母からのアドバイスに微かに眉根を寄せる。

 祖母が勧めている服は、ピュアホワイトのトップスとベビーピンクのロングスカートという、可愛らしい組合せのものだ。

「……いや、あれは私が落ち着かないから……いや、服の話じゃなくてさ、挨拶の話!」

「うーん、そうねぇ……特に気負わなくてもいいんじゃないかしら? きっとあちらのお母様は、言葉よりサト自身を見たいと思ってるはずよ」

「そうかなあ……実は擬装なんですって言ったら、どんな顔されるんだろ……」

 サトは既に何度も頭の中で描いたシチュエーションを脳裏に浮かべ、げんなりとした。

「嘘をつくことより、どうしてつきたくない嘘をつくのか、その理由をきちんとお話すればわかってくださるわよ、きっと」

 祖母はにこにこと笑ってサトに言った。

「そうかなあ……」

 サトは浮かない表情でため息を吐く。

「まあ、がっかりされるのは間違いないだろうけどねぇ……」

 祖母はお茶をすすりながらゆったりとした口調で呟く。

「うっ……」

 その一言がサトの胸に深々と刺さる。

「でも、仕方ないわよね……それだけ期待してるっていうことだもの……」

「う、うん……」

「それにねぇ、先々のことなんてどうなるかわからないんだから……ねぇ、サト?」

 祖母はサトににこりと微笑みかけた。

「私におじいちゃんとの事を聞いてきたんだもの……あなたの中で少しずつなにか変わって来てるんでしょう?」

「えっ……いや、その……あ、そろそろ出かけなきゃ」

 サトは祖母からの問に答えず、あたふたと椅子から立ち上がった。

「行ってらっしゃい」

 祖母の柔らかい声が、緊張しているサトの背を押す。

 サトは足を止め、ハァと小さく息を吐くとにこりと笑って祖母を振り返った。

「行ってきます」


 レンの家はいつもの待ち合わせ場所から三十分程の場所にあった。

「り、立派な家だな……」

 レンの家を一目見、言うサトの声が緊張からうわずっている。

「……そんなに緊張しなくても大丈夫だ」

 隣のレンが少し心配そうな表情でサトを見た。

「な、なに言ってんだ……私はな、お母さんに擬装だって言わなきゃいけないんだぞ」

 サトは青ざめた顔でレンを睨む。

「……あぁ、それか……」

 レンは門を開ける手を止め、目を細めてサトを見つめた。

「……無理して言うことはない……難しそうなら、後で俺からちゃんと話をするから、そんなに気負うな」

 その一言にサトはほっと安堵し、瞳を輝かせた。

「ほ、ほんとか!」

「……うん……ほら、深呼吸して」

「う、うん」

 レンに促され、サトは数回深呼吸を繰り返した。

「じゃあ、行くぞ」

「……よし!」

 レンの後ろを歩きながら、サトは気合を入れた。

 レンはそれを見、微かに笑みを浮かべてドアノブに手をかけた。

「ただいま」

 ガチャリと音を立ててドアが開く。

「お邪魔します」

 レンに続いて家に入り、サトは少し身を固くした。

 玄関先には、ほのかな花の香りが漂っている。

 それは、ガラスの花瓶に生けられた季節の花から発せれたものだ。

 その黄色や紫の花に、一瞬サトの緊張が少し和らいだような気がした。

 奥の方から慌ただしく人がやってくる気配がしたかと思うと、すぐに上品さと可愛らしさを兼ね添えた女性が笑顔を浮かべて現れる。

「サト、俺の母だ」

「はじめまして、レンの母です」

 サトを迎える喜びが、その表情から溢れている。

 ……やはり、これは無理かもしれない……

「はじめまして……アマガイサトです」

 サトは満面に笑みを浮かべながら、内心で諦め始めていたのだった。

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