第32話 好み

「私、会社を辞めるつもりなの……すぐにじゃないよ、半年後くらいにね」

 チカはそう言うと、少し照れくさそうに微笑んだ。

「結婚したら、家のこときちんとやって彼のこと支えたいし……あ、そうだ」

 チカは何かを思い出したかのように、ポケットからキーホルダーを取り出す。

 その先端には乳白色の尖ったものがついていた。

「これ、この間水族館に行った時のお土産。サメの歯のキーホルダー。サメの歯って、昔からお守りにされてきたんだって……私の代わりに、この歯がサトに近づく悪い気を噛み切ってくれるから!」

 にこりと微笑んで、チカはサトにキーホルダーを差し出す。

「寂しくなるな……」

 それを受け取りながら、サトはぽつりと言った。

 笑って受け取ったつもりだったが、うまく笑えていただろうか。

「うん……私も寂しいよ……もう二度と会えなくなるわけじゃないけど、今みたいに毎日お昼ごはんを一緒に食べられなくなっちゃうんだもの」

 言うチカの瞳が微かに潤む。

「……これからチカが社を辞めるまで、昼休みは大事に過ごさなきゃな」

 そんなチカを見て、サトはなんとか笑顔を作った。

「……ありがとう、チカ……大事にするよ、お守り」

 サトは言い、チカから受け取ったキーホルダーを大切そうにポケットにしまい込んだ。

「うん……」

 チカは、お守りに込めたもう一つの願いを飲み込んだ。

 いつか、本当に好きになった誰かと幸せになれますように。


 路面電車が揺れるたび、サトのバッグにつけられたサメの歯のキーホルダーが揺れる。

「……そういえば、確かお前の推しキャラはエイだったよな」

 水族館に向かう路面電車の中で、レンは唐突に言った。

「……なんだよ急に……そうだけど」

 サトは怪訝そうな表情を浮かべる。

 エイ、とはサトがレンに要求している報酬、漫画ニタイトルの内の一つの作品に登場する人物だ。

 性格は真面目で温厚、顔立ちも優しげな男性キャラだ。年齢は二十代後半くらいだろうか。

「……あのキャラ、オッサンと呼ぶには若すぎないか? あの漫画にはもっと年齢が高いキャラが沢山出ているだろう?」

 レンからの問に、サトはほんの少しだけ考え込んだ。

「まあ、そう言われればそうだけど……なんかさ、あの人あまり若々しさが感じられないっていうのか……性格が落ち着いてるからなのかな?」

「なるほどな……で、あのキャラのどこが好きなんだ?」

「可愛いところ」

 サトは即答するが、その答えにレンは眉根を寄せる。

「可愛い?」

「可愛いだろ……出番少ないのに、いつも一生懸命でさあ……報われない恋もしちゃってるし……いや、私は応援してるけどな……いや、でも絶対にくっつかなさそう……そんな香りがする」

 サトは至極真面目な表情で思いを語った。

「……シノ物流で働いている人達も、同じ理由で可愛いと言ったのか?」

「えっと……シノ物流のオッサン達はさあ……」

 サトは再び考え込む。

「まあ、色々だよねぇ……黙々と真面目に働いてる人もいれば、おしゃべり好きで適度に息抜きしながら働いてる人もいる……まあ、どのオッサンも基本優しくていい人達だよ」

「ふぅん……なんだかよくわからんな、お前の好みは」

 ため息混じりに言うレンに、サトは少し呆れたような視線を向けた。

「私の好みなんて聞いて、なにが楽しいんだ?」

「……楽しいもなにも、好きな女の好みが気になるのは当然じゃないか。それに、もしかしたらシノ物流に想う相手がいるかもしれないだろう?」

 レンはほんの少し疑わし気な視線をサトに送る。

「はあ? いるわけないだろ! そんなもん!」

 サトはわずかに頬を赤らめて俯く。

「……お前、誰かを好きになったことはあるのか? 人としてじゃなく、異性として意識したことが、だ」

『サトは、誰かのこと好きになったことないの?』

 先日同じことをチカから聞かれていたことを、サトは突然思い出す。

 無意識の内に、サトはキーホルダーに括り付けられたサメの歯を握りしめていた。

「……ないよ……一度も……」

 サトは俯いたまま、小さな声で呟く。

「……そうか……それなら、俺の気持ちをわかってくれって言っても、難しいかもな……」

 レンは小さくため息を吐いて、路面電車の窓から見える外の景色に視線を移した。

 そこには、鉛色に輝く水平線が延々と広がっている。

「……恋愛感情くらい、私にだってわかるよ……漫画でだって、よくでてくるじゃんか」

 サトは少し不服そうにレンに言った。

「……漫画で読んだのと自分が体験したのでは、まったく違うと思うぞ」

 海原から視線を逸らさず、レンは言った。

「うっ……」

 サトはレンの指摘に言葉を詰まらせ、再び路面電車の床に視線を落とした。

 車内のアナウンスが、終着点である駅名を告げる。

「次で降りて、あとは歩きか……」

「……五寸釘なんて呼ばれるような女に、恋愛なんかできるわけないだろ……」

 細いサトの声音が、床に向かってこぼれ落ちる。

 ガタン、と車体が大きく揺れて路面電車が停まった。

「できるさ……実際、お前は俺から惚れられてるんだから……ほら、降りるぞ」

 レンはサトの手を取り、降車口に向かう。

 なぜかその手を振り払う気にもならず、サトはそのままレンに手を握らせ続けたのだった。

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