第33話 共感

「……やっぱり水族館、混んでるな……」

「まあ、週末だからな……お前の分のチケットも一緒に買ってくるから、ここで待ってろ」

 レンは言い、チケット販売窓口の列に並んだ。

 小さな子供を連れた家族やカップルが、何組もサトの前を通り過ぎていく。

 子供達のはしゃぎ声、注意する母の優しく鋭い声、微笑みながらカメラのシャッターを切る父親、幸せそうに笑い合う男女……

 彼らの放つ浮足立った気配が、サトの心をじわじわと重くしていく。

「……せっかく来たかった水族館に来たのにな……なんだ、これ……」

 サトはため息を吐き、足元をじっと見つめてレンを待った。

 自分ではどうにもできない、己自身の憂鬱を持て余す。

『私の代わりに、この歯がサトに近づく悪い気を噛み切ってくれるから!』

 にこりと笑うチカの顔がサトの脳裏に浮かぶ。

 サトはバッグからキーホルダーを外し、それを胸に抱いて握りしめていた。

「……なにしてるんだ?」

 突然降ってわいたレンの声に、サトはびくりと肩を震わせた。

 二人分のチケットを入手したレンが列から戻ってきたのだ。

「な、なんでもないよ」

 サトはなぜか堂々と説明できずに、キーホルダーをスカートのポケットに押し込んだ。

「……小さいのと大きいの、どっちがいい?」

 静かな声音でレンが問う。

「……なんの話?」

 それに合わせて、サトも静かに問い返した。

「これ」

 レンが示したのは二枚の水族館の入場チケットだった。

 一枚にはオレンジと白の模様が愛らしい小魚、もう一枚には強面の大きな魚がプリントされている。

「……小さい方がいい」

「うん」

 レンは頷き、サトにチケットとパンフレットを手渡す。

「……この魚、クマノミって言うんだぜ……そっちのは名前知らないけど」

 サトはそれを受け取りながら言った。

「……そうなのか……可愛いな、クマノミ」

「……交換する?」

 上目遣いに言うサトにレンは苦笑した。

「気にしなくていいよ……行こう」

 レンは入り口のゲートに向かって歩き始める。サトはその後ろを歩いた。

 館内は広くて天井が高く、週末で混雑していても圧迫感を感じさせない工夫が随所に施されている。

 廊下沿いに貼られたガラスの向こうには、岩礁と小中様々な魚が泳ぎ、歩きながらそれらを眺めることができた。

「……面白いな、これ……」

 数メートル続くガラスの向こうの景色を眺めながら、サトはしみじみと言った。

 ゆっくりと歩くサトを振り返り、レンは歩調を合わせる。

「色んな魚がいるな」

「……うん……みんな游ぎ方が違ってて面白い」

 サトは足を止め、各々自由に泳ぎ回る魚を見ながら言った。

「……自由に……気の向くままに……そんな気がするな」

 ガラスの向こうを見つめながら、レンはサトの隣で呟いた。

「……自由に……かぁ……」

 ふと、サトは自分自身が窮屈に感じられてきた。

 なにかに囚われていて、息苦しい感じだ。

 レンはゆっくりと、次のコーナーに足を向ける。

 その背を伏し目がちなサトが追う。

 次の展示コーナーは地下にあり、そこまでは緩やかな下り坂が続いていた。

 陽の光が届かない深海をイメージしているのか、暗い道が続いている。行き先に明るいものが一切見えず、足元を照らす照明が神秘的なものに見えた。

「……なんか、宇宙にいるみたい」

「……迷子になるな」

 前を歩くレンの背が止まるのが見えた瞬間、サトは手のひらに人肌の温もりを感じた。

 じんわりと、手のひらから胸のうちにあたたかいなにかが伝わってくる。

「……どうしてホッとしてるんだろう……」

 レンに手を引かれながら、サトは呟いていた。

「……暗いと、心細くなるからな……」

 レンの言葉に、サトは暗がりの中で微かに目を見開く。

『そこにいる限り、あんたは暗黒世界で生き続けることになるな』

 いつかの公園のベンチで、サトがレンに言った言葉だ。

「……そうか……誰かに寄りかかりたくなる気持ち……なんとなくわかった気がした」

 サトは小さな声で言った。

「……スロープが終わるぞ」

「……わあ……」

 そこには地下一階から地上一階までの高さの大きな水槽があった。

「きれい……」

 サトは思わず呟いた。

 水槽の上部にうず巻く銀色の帯が、その形を変えながら光を受けてきらきらと輝いている。

 それは、一匹一匹は小さい魚の群れだった。

 下部は岩礁になっており、サメや海亀なども悠々と泳いでいる。

「……まるで、空を翔んでるみたいだな……」

 海亀がヒレを動かして泳ぐ様を見つめながら、レンは呟いた。

 サトは暫くの間、水槽から目を離せずにいた。

 神秘と自由がうず巻く景色に、心を奪われる。

 自分の吐く息すら、目の前の海水に溶けて水面に登っていくような、そんな錯覚を覚えた。

 その横顔をレンはじっと見つめている。

「……そろそろ、次に移動しよう」

 レンの声に、サトはハッと我に返った。

「……すごい……なんか、圧巻だったな……」

 サトは少し呆けたような表情で言った。

「……ほら、次はいろんなクラゲがいる……こっちもかなり幻想的だぞ」

「……ほんとだ……」

 サトは思わずため息を吐いた。

 真っ白で長い羽衣をたなびかせているかのような、優雅なクラゲ。

 ポム、ポムという音が聞こえてきそうな、キノコのような姿形のクラゲ。

 細長い楕円形の身体の中に光が点滅しているクラゲ。

 そして大きな水槽には半透明の沢山のクラゲが泳いでいた。

「光の色が映えるな……クラゲが半透明だから」

 レンは横並びの二つの水槽を交互に見ながら言った。

 水槽に施された照明の色は、青と明るい紫だ。

「光の印象で、同じクラゲなのに雰囲気が変わるんだ……どっちもきれいでかわいいけど……」

 サトはほぅとため息を吐いてそれを眺める。

「与えられるもので印象が変わるなんて、まるで人みたいだな」

 レンは次のコーナーを回りながら呟く。

「俺達も、自分で選んでいない周りの環境の中で育って今がある」

 眺めて回る水槽には、擬態して砂地と同化している魚や岩に張り付く赤いヒトデ、ガラスに張り付いているように見える大きなカニなどがいた。

「だけど今は、変えたければ変えられる……」

 レンは呟き、サトの手を握る手にほんの少し力を込める。

 二人は登りのエスカレーターに乗った。

 それはまるで、暗い地下の世界から明るい地上の世界に向かうように感じられる。

 二人は視線の先の眩しさに、微かに目を細めていたのだった。

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