第16話 今日の反省
「ただいまぁ……」
時刻は午後六時。
「おかえりなさい、サト」
アマガイ家の中には、台所から漂う祖母の手料理の匂いが充満している。
「晩御飯は?」
祖母が階段を足早に上がっていくサトの背に訊ねた。
「食べるよ!」
サトは短く返事をすると、部屋に入りドアを閉める。
「……はぁ……なんだこれ……心臓に悪い……」
サトは暗い部屋の中、灯りもつけずに床にペタリと座りこんだ。
サトがこうなった原因は、動物園前の停留所から乗った路面電車での出来事だった。
「混んでるなあ……かと言って流石に歩いて帰れる距離じゃないし」
二人は仕方なしに混雑している路面電車に乗った。
直ぐ真横に人がいる状態で、レンはサトを自分の方に引き寄せた。
不幸中の幸いだったのは、レンと正面から向かい合っていなかったことだ。
だが、伝わってくるレンの体温にサトは頭がくらくらしていた。
しばらくして車内が空いて来ると、ようやくレンと距離を取ることができた。
「他の男に触られたくなかったから」
あまりの気まずさに黙ったまま俯くサトに、レンはいつもの淡々とした口調で言った。
「そっ、それは気遣いありがとうございます」
サトの返した言葉は明らかに上ずっていた。
口にした本人がその場から消えたいと思った程だ。
「俺は次の停車駅で降りる……その指輪、外すなよ」
「……わかってるよ」
ガタン、と揺れて電車が停まった。
「じゃあな」
「……うん」
ついにレンの顔を見ることもなく、サトとレンは別れた。
その後しばらく路面電車に揺られて帰宅したサトだったが、どこをどう歩いて帰って来たのか記憶が定かではなかった。
「……情けない……しっかりしろ、私……」
サトは深呼吸を繰り返し、窓から見える月を見上げた。その月に重ねるように自身の左手を翳す。
「……指輪……きれいだな……」
呟き、サトは目を細める。
「ほんと、私なんかにはもったいないよ……まあ、どうせすぐに返すけどさ……」
「サト……帰ってきたんか?」
コンコンと部屋の扉がノックされ、サトは慌てて手を引っ込めた。
声は祖父ヤジロウのものだった。
「う、うん! 着替えたら下に行くから!」
「ふぅん、そうか……今日の報告、楽しみにしてるからの」
扉の向こうのヤジロウの声はそう言うと遠ざかり、階下に向かうトントンという足音が聞こえてくる。
サトは小さくため息を吐き、指輪を外そうと力を込めた。
「指輪を外して、コンタクトレンズも外して……ってあれ? ゆ、指輪が外れないっ!」
サトは焦りの表情を浮かべた。
「な、なんで……いっ、痛、あーっ、無理だ! 外せない!」
その原因はむくみである。
普段指輪をしないサトにその知識はなかった。
「これじゃあ、じいちゃん達にばれちゃう……はっ、そうだ、包帯を巻けば……」
青ざめたサトが選んだ苦肉の策は、指輪の上から包帯を巻く事だった。
サトはさっさと部屋着に着替え、左手の薬指に包帯を巻きつけた。
「よし、これでなんとか乗り切るぞ……ふふふ……」
サトはぶつぶつと呟きながら階段を降り、洗面台でコンタクトレンズを外して愛用の眼鏡を掛けるとダイニングに向かった。
「あら、サト……どうしたの、その手?」
祖母がサトが巻いた白い包帯に気がつき、心配そうに眉根を寄せた。
「あっ、うん大したことないよ、かすり傷だけどばい菌入ったら嫌だからさ」
ははは、とサトは愛想笑いを浮かべた。
そんなサトを、正面に座る祖父ヤジロウがじっと見つめている。
「な、なに? じいちゃん?」
その視線に気づき、サトはにこりとヤジロウに微笑みかけた。
「いや……で、どうじゃったな? 今日のデートは?」
ヤジロウも真顔から笑顔になって、サトに訊ねる。
「ど、どうって……動物園なんて久しぶりだったから、楽しかったよ!」
笑顔のままヤジロウの問に答えるサトの前に、祖母が煮魚と味噌汁を置く。
「そうかそうか……で、今日の目標は達成できたかの?」
少し意地の悪いニヤリとした笑みを浮かべながら、ヤジロウは聞いた。
「だっ、だから、目標とかさ……」
途端にサトの表情は反抗的なものになる。
「ほぉ、達成できたか! いやあ、良かった良かった!」
しどろもどろになるサトに、ヤジロウは高らかに笑った。
「で、その次は?」
「つ、次? 次ってなに?」
困ったように眉根を寄せるサトの前に、祖母がくすくす笑いながら白米の盛られた茶碗を置く。
「い、いただきます」
サトはこの場の空気を誤魔化すように、さっさと食事を始めた。
「手をつなぐ、の次はハグじゃな」
「は?」
ハグ、と聞いた瞬間サトの脳裏に帰りの路面電車での出来事が蘇る。
引き寄せられた時に感じたレンの腕の力強さと、確かにすぐ傍にあったその体の存在感。
サトの全身に奇妙なむず痒さが走る。
あれは、車内が混雑していたからだ。間違ってもヤジロウの言う抱擁などではない。
「……ない、してないから、そんなこと」
小さな声で言うサトに、祖母はため息をついてヤジロウを見た。
「あなた、あまりサトを困らせたらかわいそうよ」
「……そうじゃな、消化に悪そうじゃからもうよすわ。ワシも飯を食う」
「はいはい」
ヤジロウの言葉に、祖母はにこにこと笑って準備を始める。
あの時、なぜレンの手をとったんだろう?
サトはもそもそと祖母の手料理を口にしながら考えていた。
『……同情されたくないような感情を、俺も持ってるからだ』
レンがそう言った瞬間、胸がサアッと冷たくなった。
放っておけない。
あの瞬間、サトはそう思ったのだ。
その感情は、女が男を想うものとは違う気がした。
「……だいたい、私が好きなのは可愛いオッサンだしな……」
それでは、満員電車でのことはどうなのか?
「……あれは、単にああいった場面に慣れてなくて緊張しただけだし……」
「さっきから何をぶつぶつと言っとるんじゃ、サト?」
ヤジロウが目の前に並べられた料理に手をつけながら言った。
「……今日の反省だよ。あと二回もこなさなきゃならないからね、練習……ご馳走さま」
サトは空いた食器を手に立ち上がる。
「……のう、ばあさん。昔、風呂場で指輪無くしたって大騒ぎしたのを覚えとるかの?」
ヤジロウが祖母に向けた問に、サトの体が一瞬ぎくりと止まる。
「え? えぇと……確か婚約指輪を……そうそう思い出したわ」
祖母はお茶をすすりながらにこにこと話し始める。
「指輪を外してお風呂に入ろうとしたら、指がむくんでて外せなかったのよ。それでつけたままお風呂に入ったら、石鹸で滑って外れちゃってねぇ……あの時は本当にどうしようかと思ったわ」
サトは祖母の声を背に、白い包帯をじっと見つめた。
「危なかった……あやうく流すとこだった」
「今の話、役に立ったかのぉ? サト?」
ヤジロウのゆったりとした問が、少し丸まっているサトの背に容赦なく刺さる。
「なんの話?」
祖母が首を傾げる。
「その白々しい包帯の話じゃ」
ヤジロウが祖母の淹れた茶をすすりながら言った。
「……やっぱりじいちゃんの目は欺けないか……」
サトはため息を吐きながらヤジロウを振り返った。
「当たり前じゃ」
「……じいちゃん、ばあちゃんに話した? 擬装結婚のこと?」
「聞いてるわよ、サト。嘘っこだけど、嘘が本当になることもあるから、なんて言ってたわ」
祖母がヤジロウに代わって穏やかな口調で答えた。
「……そっか……じゃあいっか……」
サトは呟き、左手の薬指に巻いた包帯をくるくると外した。そこには、上品な佇まいのエンゲージリングがある。
「擬装結婚の契約が終わったら、返す約束なんだ」
「ほう、よく似合っとるぞサト」
「ほんと、きれいねぇ」
サトの言葉を聞いているのかいないのか、ヤジロウと祖母は口々に言った。
「……うん、きれいだよな……でも、返すんだ」
サトは真顔で浮足立っている二人に言った。
「あら、もったいない」
「なくしたフリすればバレんぞ」
祖母とヤジロウが口々に言う。
「……いや、返すから!」
サトは祖父母に指輪を披露してしまったことを、ほんの少しだけ後悔したのであった。
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