第21話 暗黒世界
母は完璧な存在だった。
こうでなければ、が強かった父からなにか指摘されても、いつも穏やかな笑みを浮かべて対処していた。
ゆるぎない、幸せな家庭。
父の理想像を押しつけられるのは、時折窮屈に感じられたが、それはたった一人の息子である自分に対する期待の現れなのだろう。
ならば、父の為にも頑張らなくては。
大好きな母の笑顔が傍にあれば、たくさんの辛いことも乗り越えられる。
そう思っていた。
あの日、はしゃぎながら楽しそうに笑う母を見るまでは。
サトは無言でレンの三歩後ろを歩いていた。
「なんか、気まずい雰囲気なんだよな……私、なんか言ったかな……」
手漕ぎボートを降りてから、レンはずっと無言を貫いていた。
サトは自分の言動を振り返ってみるも心当たりがなく、小さくため息を吐いた。
園内には、様々な色の花があちらこちらで咲いている。それらをなんとなく眺めていると、サトの気持ちは少しずつ落ち着いてきた。
「……気のせいか……よく考えたら、こないだ動物園に行った時も大して喋ってなかったよな」
ふと、サトの前を行くレンが足を止めた。
「ん? なんだ?」
サトも同じように足を止めて、動かないレンの背中を見つめた。
「……楽しくないよな、惚れた相手でもない男と一緒にいても」
レンはまるで独り言を呟くように言った。視線は前を向いたままだ。
「……なんだよ、急に」
サトは怪訝そうな表情を浮かべる。
「……すまない」
「は? なんで謝るんだよ……あのさ、謝るくらいならさ、なんかこう……盛り上げようぜ! ……って、そりゃ無理にとは言わないけどさ」
サトは無理矢理テンションをあげようとしてやめた。
「……契約だろ……私達がこうしてるのはさ……あんたのお父さんの為に……違うのかよ?」
「……違わない」
「これは私が引き受けた契約だ。お互い利益を得る為のな……お前だって、そうだろう? それなのに今さら謝るなんてどうかしてる」
サトはすたすたと歩き、レンの正面に立った。
「お前は、誰に、なんで謝ってるんだ?」
サトのまっすぐな視線がレンの揺らぐ視線を捕える。
「こないだっから気になってたんだ……お前、いったい何を抱えてるんだ?」
「……何も……」
レンは呟き、視線を逸した。
「嘘をつくな。なにもない奴が、そんなに寂しそうな面するかよ! ……確かに私に話したところで、それは解決しないかもしれない。だけど、黙って一人で抱えるよりずっとマシだろ? それとも信用ならないか、私は」
「……信じてない……人は、嘘をつく生き物だ」
レンは絞りだすように言葉を紡いだ。
「確かにそうだ。それは否定しないさ。だが、だからといって、あんたが苦しまなきゃいけない理由がどこにある?」
サトの言葉に、レンはハッとした。
「……苦しそうなのか、俺は……」
「……今のお前は、私にはそう見えるよ。社にいる時とは大違いだ。だけど、それが本当のところなんだろ?」
「……わからない……」
サトの問にレンはぼんやりと呟いた。
その様に、サトはハァとため息を吐く。
「お前、ちょっと来い。私はそんな面した奴の後ろを歩くなんざ、まっぴらゴメンだ」
言い、サトは近くにあるベンチに向かった。
「気持ちを切り替えるか、洗いざらい吐いてスッキリするか、どちらか選べ。さもなきゃ、私は一人で帰るからな!」
鮮やかな黄色い花が植えられている花壇に面したベンチに腰掛け、サトは隣のレンに言った。
「……とりあえず、そこで飲み物を買ってくるからその間に考えとけよ」
ぼんやりと黄色い花を見つめるレンに声をかけ、サトは近くにある自動販売機に向かった。
「……なんだかなぁ……どうしたってんだ、あいつは……」
サトはホットコーヒーのボタンを選びながら、ぶつぶつと呟く。
「ほら……これ飲んで少し頭冷やせ」
ベンチに戻ったサトは、ホットコーヒーの缶をレンに手渡した。
「で? 誰がお前に嘘をついたんだ?」
サトは缶コーヒーに口をつけながら、黄色い花に向かって問いかける。
「……母だ……」
小さいが確かに響くレンの声が、静かな空気を震わせた。
それは、サトがうっすらとそうではないかと思っていた答えだった。
「俺や父が知らないところで……あんなに楽しそうにして……」
レンは手の中の缶コーヒーを握りしめる。
「俺は……見たことがなかったんだ……まるで無邪気な子供みたいに笑う母の顔を……それを、あの男と一緒にいる時にだけ見せてた……わかるか、サト? 浮気していたんだ、俺の母は……しかも相手は父の友人だ。何度も家に遊びに来ていた……同じ会社の……」
サトは黙り込んだまま、レンの話を聞いていた。
「俺がたまたま見かけてそれを知ったのが、八歳位のことだった。まだ八歳の子供だったけど、俺には十分すぎる位ショックだったんだ。あの時の母の表情は、好意を抱いている相手に見せるものだとわかったから……俺は、すぐに母に聞いたよ……『父さんのこと、嫌いになったの?』って」
「……うん……」
「最初は相手にされなかった。『なに言ってるの』って、いつもの顔で……でも、俺はひかなかった……そのうち母の表情は強張っていったんだ……俺が何かを知っていると悟ったんだろう」
はあ、とレンはため息を吐いた。
「母はただ『ごめんなさい』だけを繰り返した。俺の問には答えずに……父よりも俺よりも……母はその男を選んだんだ……それなのに、母は母であり続けた……父とも別れずに良い妻を演じている……今もだ」
「演じてる……のか? お母さんは、その浮気相手と別れたんじゃないのか?」
「……もしそうだったとしても、俺は今さら母を信用できない」
レンは静かな声音で言い切った。
「……そうか……それは寂しいだろうな、お前もお母さんも」
サトは穏やかに晴れ渡る空を見上げる。
「母さんも?」
レンは怪訝そうな表情でサトを見る。
「だって、お母さんは家を出ていかずにお前の傍にいたんだろ? しかも、信用されてないのがわかっててさ……それはけっこう辛いと思うよ……あ、別にお前の事を責めてるわけじゃないよ」
サトは微笑を浮かべてレンを見た。
「お母さんの人生は、お母さんが決めることだ。私達子供は傷つくことはあっても、それに振り回されることはないじゃないか」
「……お前は……大人だな……」
レンはサトを見つめる目を細め、ぼそりと呟く。
「……私が言ったんじゃない、じいちゃんが言ったんだ。昔、家から母さんがいなくなった時、私が家出しようとして……」
サトはその当時を思い出し、自嘲するような笑みを浮かべた。
「私がいなくなれば、母さんはこの家に戻ってくるんじゃないかって……そう思ったんだ。それを引き止められた時にじいちゃんに言われたのさ。『母さんには母さんの人生があるように、お前にはお前の人生がある。どんなに辛くても、他人の人生にお前の人生を振り回されちゃいかん』ってね……まあ、そうは言ってもまだ五つのガキだったからさ、私も」
ふぅ、とサトはため息を吐いた。
「色々反抗したよ……ばあちゃん泣かしたし、父さんからビンタもくらったしね……でもじいちゃんはいつも落ち着いてたな……練習サボったのは怒られたけど」
「……そうか……羨ましいよ……俺にもそういう家族がいてくれたら良かったのに」
レンはしみじみとした口調で言った。
「……家族なら、これからお前がつくればいいだろ? こうだったら、ってのを実現するんだよ、お前が」
にこりと笑ってサトは言った。
「……俺が……作れると思うか? こんな性根の暗い俺が」
レンはそんなサトをじとっとした視線で見つめる。
「暗いのが嫌だったら、やめりゃあいいじゃんか。簡単なことだろ?」
サトはあっさりと言ってのけた。
「簡単じゃないよ……お前とは出来が違うんだ。ナイーブなんだよ、俺は」
レンは微かに渋面を作って言う。
「おや、そうですか……残念ながら私にはナイーブなんて単語は無縁でね……理解できないよ、まったく」
サトは笑ってしかめっ面をしている隣のレンを見た。
「でもさ、私に話して少しはスッキリしただろ? 解決にはなってないかもしれないけどさ」
「……缶コーヒー、冷めてしまった」
レンはすっかり冷たくなった手の中の缶を、自分の額に押し当てた。
「……頭冷やそう……俺……」
「そうそう、冷やせ冷やせ……そんでもって前を見ろよ、未来はきっと明るいぞぉ」
サトはケラケラと笑って黄色い花に目をやった。なぜか始めに見たときよりも、その色が鮮やかに映る。
「……お前はほんと……無責任が過ぎる……」
レンが重苦しいため息を吐きながら言った。
「はあ? なんだよそれ……せっかく人がいいこと言ったのによ!」
サトは不服そうに眉根を寄せる。
「俺の未来が明るい保証なんて、どこにもないじゃないか」
「なに言ってんだ、保証付きの人生なんか楽しくもなんともないじゃんか! 自分でああしたいこうしたいってやっていくから楽しいんだ、人生ってのは」
「……それも先生の受け売りか?」
「……いや、これは私の持論だ。で、これからどうするよ? まだ今日の擬装デート続けるのか?」
サトの問に、レンは少しの間沈黙した。
「……お前、俺と一緒にいて楽しいか?」
「あのな、楽しいと思うか? 今までの話の内容だと楽しいからは程遠いぞ」
サトは困ったような表情で答える。
「……だよな……」
「あのな、誰かを楽しませたいならさ、まずは自分が楽しめよ」
サトは少し呆れたように言った。
「俺はお前に話を聞いてもらえて、良かったと思ってる……母のことは、そう簡単に変えられないが」
レンは視線を前に向け、ボソボソと言った。
「……そこにいる限り、あんたは暗黒世界で生き続けることになるな……ま、いいんじゃない? どう生きようが、それはそいつの自由だからな!」
サトは言い、うーんと体を伸ばした。
「あー、誰かの役に立ったら腹が減った……なあ、焼肉食いに行こうぜ! 公園の軽食じゃ物足りないや! おい、焼肉ランチ奢れ!」
「……オススメの店は?」
ふと笑ってサトを見つめ、レンは問う。
「任せとけ……安くて旨い焼肉ランチを提供する店はチェック済みだ」
ニヤリと笑ってサトは答えた。
「よし、じゃあ行こう」
レンは手にした缶コーヒーをジャケットのポケットに入れると、すくっと立ち上がった。
「行こう行こう! 焼肉!」
サトも笑顔を浮かべて立ち上がる。
「?」
その正面にレンが立つ。
どうした、とサトが問う前にレンはサトをぎゅっと抱きしめた。
「ありがとう」
「れ、礼なら普通に言えよ!」
すぐさまサトはレンの体を突き放す。
「……これで課題は達成した」
サトから思いっきり突き飛ばされても、レンは微笑を浮かべていた。
「はあ? ふざけんなよ、なにが課題だ!」
赤い顔をして叫ぶサトを置き去りにして、レンはくるりと踵を返して公園の出口に向かって歩きだす。
「お、おい、待てよ! 焼肉!」
その後ろ姿を、サトは慌てて追い始めたのだった。
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