第20話 思い出
路面電車を乗り継いでレンとサトが向かった先は、大きな人工池がある公園だった。
様々な木々や花が園内のあちらこちらに植えられ、一年中何かしらの花が楽しめるようになっている。
人工池では、足漕ぎ式手漕ぎ式のボートが楽しめる。三十分制だ。
サトとレンが選んだのは、手漕ぎ式のボートの方だった。
「漕ぎたい!」
と目を輝かせたサトをじゃんけんで負かしたレンが、池の半分辺りでボートをとめた。
「お前は、なぜ大会に出ないんだ?」
唐突にレンはサトに訊ねた。
「ん? なに?」
不貞腐れて周囲の風景を眺めていたサトが、正面のレンを見た。
「大会の話だ。うちの社内で行われてる、剣術大会があるだろう? 年に一度、毎年開催されてる……なぜそれに出場しない?」
レンも目の前のサトを、いつもの無表情でじっと見つめる。
「……あぁ、あれか……」
ふとサトは深緑色の穏やかな水面に目をやった。
「あのさ、歴代の勝者って調べた?」
「調べるまでもない。俺が入隊してから今回まで、優勝してるのは俺だからな」
「えっ、そうなの?」
サトは目を丸くしてレンに視線を戻した。
「なんだ、知らなかったのか?」
レンは呆れたように小さくため息を吐く。
「……うん……自分が出てない大会の結果なんて、さらさら興味なかったからな……そっか……隊長、そんなに強かったのか……てことは、じいちゃんの道場を辞めた後も剣道は続けてたんだな」
レンはサトの言葉に頷いた。
「まあ、元々好きだったしな……俺が隊長職に昇格したのは、大会を連覇してる事と空席のタイミングによるものだってことがこれでわかっただろう?」
「……なるほど、実力でってことね……悪かったよ、疑ったりして……ってことは、その前の年の優勝者の事は調べてないんだな?」
「前の年?」
レンは怪訝そうな表情を浮かべる。
「そっ。私が入隊した年のやつ。つまり、隊長が初優勝した二年前のやつだ」
「……その優勝者がお前か」
レンが話の先を読み、それを口にした。
「そうさ。入隊したばっかりの小娘が、なんと優勝しちまったわけさ!」
サトはニヤリと笑った。
「そしたらさ、どうなったと思う? 次の大会以降出場禁止だってさ!」
「なに?」
レンは眉根を寄せる。
「……面白くなかったんだろ、若輩者の女に負けたのが……まあ、わからなくもないけどね……私も悔しかったからさ、基礎の鍛錬は今だに続けてるよ……それにしても残念だったなあ……もしあの後も出場してたら、隊長と対戦できたかもしれないのに」
ふふ、とサトは笑った。
「……俺が勝つに決まってる……」
レンは笑うサトを見つめながら呟いた。
「お? 強気だね……やってみなきゃわからないだろ、そんなことはさ」
「俺はお前にだけは負けたくない」
レンの台詞に、サトはムッとした。
「なんだよ、それ?」
そしてサトはハッと今朝のヤジロウの言葉を思い出す。
『お前らは、昔ワシから一緒に叱られた仲じゃろが』
「……もしかして、根に持ってるとか?」
「なんの話だ?」
「今朝、じいちゃんから聞いたんだ。私はまったく覚えてないんだが、昔私と隊長は一緒に怒られたらしいんだ」
「……覚えてないのか」
レンは深いため息を吐いた。
「あっ、やっぱりそれを根に持ってるんだな! 悪かったよ! あの頃はさ、自分がサボりたくて他の連中をよく巻き込んでたんだよ!」
サトはバツが悪そうにまくし立てた。
「……それに関しては、別に怒ってない。お前に負けたくないと思ったのは、別の理由だ」
「え……なんだ、そうなのか……」
サトは拍子抜けしたように、ホッと安堵のため息を吐いた。
「まあ、別に理由なんてどうでもいいか……とりあえず、隊長がそれだけ強くなった理由の一つになったなら、私も役に立ったってことだな」
レンは、サトの言葉を聞きながらオールを動かし始める。そろそろ船着き場に戻らないと間に合わなくなる頃だった。
「役に立つもなにも、俺の原点はお前なんだ……」
レンはぽつりと呟く。
「え? なにか言った?」
ぼんやりと風景を眺めていたサトの耳には、レンの呟きが届いていなかった。
オールが水をかき分けて進む音にかき消された言葉は、レン一人の胸に深く沈んでいく。
「お前、こんなところでなにしてるんだ?」
日の当たらないフェンスに座り込んでいたレンは、声の主を見上げた。
そこには癖の強い髪をポニーテールにした女の子がいた。
当時八歳だったレンより少し歳上に見えた。
「……その格好……うちの道場生だろ?」
女の子もレンと同じ服装をしていた。天貝剣術道場に通う児童が身につけるものだ。
「私はサトっていうんだ。孫なんだ、じいちゃんの……あ、道場では先生って呼ばれてるあのじいさんのことな」
サト、と名乗った女の子はにこりと笑った。
「……お前、大人しいな……まあ、ちょうどいいや」
ずっと押し黙ったままのレンの手を取り、サトは走り出した。
「ど、どこに行くの?」
「おっ、やっと喋ったな」
息を切らしながら訊ねるレンに、サトはニヤリとした笑みを浮かべた。その視線はまっすぐに前を向いている。
「お前も練習サボりたいんだろ? あんなとこに座り込んでてさ……あんなとこで一人でいるより、私が面白いもん見せてやるよ」
面白いもの?
どのくらい走ったのか、サトがようやく足を止めたのは一本の大木の前だった。
その場所は森公園と呼ばれてる公園の脇にある、林の中だ。
ゼイゼイと切れる息を整え、それが落ち着くとサトはにこりとレンに微笑みかけた。
「お前、名前は?」
「……レン」
「よし、レン! お前に私のコレクションを見せてやろう!」
サトは自信満々の体で大木の根本にあるくぼみから数冊の本を取り出した。
「じゃーん、見ろ!」
「……これ、なに?」
地面に置かれた厚さ約三センチほどの本を見つめながら、レンはサトに訊ねた。
「漫画だ! いろいろあるからな、好きなのを読んでいいぞ!」
サトはワクワクした表情で数冊の漫画雑誌から一冊を選び読み始めた。
レンは少しの間困惑したようにサトを見ていたが、その視線を一向に気にせず楽しそうに本を読んでいるサトが段々と羨ましくなってきた。
そして、おずおずと一冊の漫画雑誌に手を伸ばす。
そこには、初めて見る世界が広がっていた。
その話の内容は全て理解できなくとも、様々なキャラクターの表情や風景などが大波のようにレンの中に流れ込んでくる。
レンはあっという間に漫画の虜になった。
「やばい……そろそろ謝りにいかないと」
高かった日が傾き始め、辺りの空気が少しひんやりとしている。
サトは手にしていた漫画雑誌をパタンと閉じ、傍らで夢中になって漫画を読んでいるレンを見た。
「おいレン。そろそろじいちゃんに謝りに行くぞ!」
その声に、レンはハッとして視線を上げる。
「……大丈夫か?」
呆然としているレンの手から漫画を取り上げ、サトは地面に転がった数冊の本と一緒に元の木の窪みにそれらを隠した。
「続きが読みたかったら、来たい時にここに来て、勝手に読んでいいからな」
「……え……いいの?」
「うん。だから、ひとまずは帰ろう……怒られるのはイヤだけど、帰らないとばあちゃんの飯食えないし」
サトはぶつぶつと言った。
「……お、怒られたらどうしよう……」
サトに手を引かれながら、レンは怯えていた。
「練習サボったんだから、怒られるに決まってんだろ」
サトは慣れたように言った。
「まあ、安心しろよ。私が主犯だからな。お前は多分一ヶ月、私は三ヶ月ってとこかな」
「……なんのこと?」
「道場の雑巾がけのこと。まあ、私は既に罰受けてるから、延長って感じかな……あのさ、雑巾がけって足腰鍛えられるんだぜ! 道場もピカピカになるしよ!」
すっかりしょげ返るレンに、サトは笑いかけた。
「いいことだらけだろ、雑巾がけ!」
「……う、うん……」
「まあ、じいちゃんの怒鳴り声はおっかないけど、それは聞き流せ」
「う、うん……」
二人の目に、天貝剣術道場の看板が見え始める。
サトはレンの手を握る手のひらに、力をこめた。
「よし、行こう」
キュッと引き締まるサトの横顔が、レンにはなぜかかっこよく見えた。
サトが一緒なら怒られても怖くないかもしれない。
レンは、ほんの一瞬だけそう思っていた。
ところが現実はそう甘くなかった。
ヤジロウの叱責を受け、レンは涙ぐんでいたしサトもじっと唇を噛み締めていた。
「サト、お前はレンよりお姉さんなのに何をやっとるんじゃ! 罰として雑巾がけの期間と往復の回数追加じゃ!」
「……はい」
「……レンは……この後ここに残りなさい。サト、もう行っていいぞ」
サトはすくっと立ち上がり、膝の上で握りこぶしを震わせているレンを見た。
「じ……先生……この子を誘ったのは私です。これ以上怒るのは、私だけにしてください」
サトはヤジロウをじっと見つめながら言った。
「……それは知っとる。もう叱ったから、これ以上は怒りゃせんよ。心配いらん」
ヤジロウはため息混じりに言った。
サトはホッとため息を吐くと、おもむろにレンの頭を撫でた。
「?」
レンがサトを見ると、そこには柔らかな笑顔があった。
急に気恥ずかしくなり、レンはすぐに視線を道場の床に戻す。
「じゃあまたな、レン」
サトはそう言い残し、道場を後にした。
「……行ったか……」
ヤジロウは、ほぅとため息を吐いて腕を組み、目の前で縮こまっているレンを見た。
「のぅ、レン……お前はなぜ、練習を休みたいと思ったんじゃ? さっきも言った通り、ワシゃ怒らんから正直に話してみぃ」
耳が痛くなる程の沈黙が、ただひたすらに流れた。
レンは、ヤジロウの問に答えることができなかった。
「……そうか……なら、練習したくない時は練習時間が始まる前か後にここへ来て、雑巾がけをせい。期間は一ヶ月。お前は初めてだから一往復からスタートじゃ。サトのように常習になると、二往復三往復と増えて行くからの」
「……はい……」
ヤジロウは、レンが真面目な性格であることを知っていた。初等部入学時の六歳からこの道場に通っていて、週三回の練習を休んだことは今までに一度もなかった。
ヤジロウは、怒るというより心配していた。
しかし、重いなにかを乗り越えるのはレン自身が強くなるしかないのだ。
長い人生の道のりの中で、それは避けて通れない。むしろそれは、レンが強くなるために必要な工程なのかもしれなかった。
「やれ……しばらくは見守るか……」
家路に着くレンの小さな背が見えなくなるまで見送りながら、ヤジロウは一人呟いていたのだった。
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