第19話 温度差

「お帰りなさい、レン」

「……ただいま」

 いつもの静かな口調で、母は息子を出迎える。

 時刻夜九時を示す壁掛け時計が、しんと静まり返る平戸家にカチコチという音を刻んでいる。

 母には微笑が浮かんでいるが、息子にはまるで表情がなかった。

「……父さんの具合はどう?」

 母と視線を合わせることなく、息子は問う。

「……痛みを抑えるお薬を使っているから、安定しているわ……それよりレン、あなた本当にお嫁さん見つけたの? この間、そう言っていたけれど……こんな急に」

 母からの問に息子は足を止めた。

「……来月には父さんに紹介する。父さんに、そう伝えておいて……夕飯は外で食べてきたから大丈夫。じゃあ、おやすみ」

「……おやすみなさい」

 自室に向かう息子の背に、母はぽつりと呟いたのだった。


「今日はどこに行くんじゃ、サト? それにしても今日はかっちりとした服装じゃのう……こないだの方が可愛いかったのに」

 前回同様、玄関の外までサトを見送りに出たヤジロウが不服そうに言った。

「まったく! ばあちゃんと同じこと言って!」

 こちらも不服そうにサトが言った。

「今日はスポーツするんだから、スカートは履かないの!」

 叫んだサトが身に纏っているのは、カーキのジャケットとパンツにホワイトのカットソーだった。

 カットソーのホワイトがカーキに映える組み合わせだ。

「ほお、スポーツか! こりゃ腕の見せどころじゃのう? ワシも観戦しに行こうかな」

「いやいやボート漕ぐんだから、観戦とか……大会じゃないからね……ついてこないでよ」

 サトはヤジロウに釘を刺した。

「なんじゃ、照れおって……嘘っこ結婚なんじゃろ?」

 ヤジロウはニヤリとした笑みを浮かべる。

「そうだよ! なに、その目……」

 サトはぴくりと頬を引きつらせた。

「いや、いつひっくり返るか楽しみでのぅ……シシシ」

「シシシじゃないよ! もう、行ってくる!」

「ん? ほら、今日も迎えが来たぞ」

 ふくれっ面でヤジロウに背を向けたサトの目に、遠くから歩いてくるレンの姿が映る。

「げぇっ、また来たのかよ……」

「げぇっとはなんじゃサト……お前らは、昔ワシから一緒に叱られた仲じゃろが」

「は? ……覚えてないけど、そんなこと」

 微かに眉根を寄せて、サトはヤジロウを振り返った。

「まあ、お前はしょっちゅう怒られてたから覚えてないかもしれんがのぉ」

「おはようございます、先生」

 うっ、と言葉につまったサトの前でにこやかな笑みを浮かべたレンが立ち止まった。

「おぅ、おはようさん! レン、今日の目標はハグじゃぞ!」

 ヤジロウはかつての教え子であるレンに、にこりと微笑みかけた。

「なに言ってるの、じいちゃん! 擬装だって言ってるでしょうが!」

 サトが顔を赤くしてヤジロウに怒鳴る。

「はい、目標達成できるように頑張ります」

 レンはヤジロウに笑顔を向けたまま、しれっとそう宣言した。

「お前……じいちゃんに付き合わなくていいんだぞ……」

 サトが呆れたようにレンに言う。

「なにを言ってるんだサト、目標があった方がやりがいがあるじゃないか」

「やりがいって……訓練じゃあるまいし」

 レンの言葉にサトは唇を尖らせた。

「訓練だぞ、これは。前にも言ったじゃないか」

 レンは真顔でサトを見た。

「え? そうだったっけ? しかし、いったい何を強化する訓練だ?」

 サトは怪訝そうな表情を浮かべ、首を傾げる。

「これは、お前の魅力を引き出す訓練だ」

「はあ? なんだそれ、私はそんなこと望んじゃいねぇわ!」

 レンの答えにサトは思わず叫んだ。

「ほぉ、さすがはワシの教え子じゃ……頼りがいがあるのぉ」

 しかし、方やヤジロウは満足げな笑みを浮かべている。

「ありがとうございます、先生。では、行ってきます」

 ふくれっ面のサトの肩に、にこやかな笑みを浮かべたレンがすっと腕を回した。

「おいっ! だから触るなって言ってんだろ!」

 前回同様、騒がしく去っていく二人の背に目を細め、ヤジロウは一人呟く。

「これはますます面白くなってきたのぅ……今夜の反省会が楽しみじゃわい」

 ヤジロウが見上げる空には、穏やかな光を放つ太陽が燦燦と輝いていたのだった。

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