第5話 大衆居酒屋の安うまランチ
「目がゴロゴロする……」
コンタクトレンズ店を後にしたサトは、レンの後ろを歩きながらぶつぶつとこぼした。
「慣れるまで我慢しろ。いいか、俺の前にいる時は眼鏡禁止だからな。もちろん、職場でもだ」
レンは振り返りもせずに言った。
「なんだと……」
「これは上官命令だ」
ピシャリと部下に言うレンが次に向かったのは美容室だ。
二人は何件か美容室をはしごし、予約がなくても縮毛矯正を施術してくれる店を探し出した。
「こ、腰が痛い……」
その施術には時間がかかった。サトは、案内された椅子に二時間以上座りっぱなしだった。
「ふうん、まあまあな出来じゃないか」
顎に手を当て、レンはまじまじとサトを見た。
「まあまあって……」
美容室を後にしたサトは、鏡の中の自分を思い出していた。
「そりゃ、確かに見た目は大分変わったけどさ、そんなに大事なことかそれ?」
次は服屋を目指して歩くレンの背中に、サトは不服そうに言った。
「大事だ、この大馬鹿者!」
くるりと振り返り、レンは叫んだ。その表情はいつものように無表情なものだった。
「お前の外見からは、諦めの香りしかしない。せっかくいいものを持っているんだから、それを活かせ!」
「なんだよ、えらっそうに……私ゃいいものなんかひとっつも持ってねぇよ、あんたとは違うっつぅの」
サトは吐き捨てるように言った。
「アマガイ、お前の凛とした一本気を感じる姿勢は、十分魅力的だと俺は思う」
「はあ?」
思わずサトは眉根を寄せ、足を止めた。
同じように足を止めたレンとサトはしばしの間、向き合ったまま沈黙した。
「……意外と時間を取られたな……服を買う前に、どこかで昼食をとろう」
レンは気を取り直したように腕時計を見て言った。
「あぁ……それなら、コンタクトレンズ代と美容室代払ってもらったんだから、昼飯は私が奢るよ。ちょうどこの近くに安くてうまい店があるんだ、行こうぜ」
サトは言うとレンの先を歩き始める。
「大衆居酒屋……」
店の暖簾を見上げ、レンは呟いた。
「隊長はこないか、こういうとこ」
「いや、たまに隊の連中と利用するが……昼には来たことがない」
「そっか、手頃な価格でうまいランチが食えるんだ、入ろう」
少し戸惑いの表情を浮かべるレンを置き去りにして、サトは店の暖簾をくぐった。
「いらっしゃい!」
店の主人と女将は揃って声をあげた。
「こんにちは、二人なんだけど席空いてるかな?」
サトはにこにこと笑いながら言った。
「えぇえぇ、空いてますよ……奥の方にどうぞ」
女将が愛想よくサトに言う。
「空いてるってさ、隊長」
「……うん」
レンはゆっくりと暖簾をくぐる。
「あれ、お客さんには見覚えがあるねぇ。昼間に来るなんて珍しいじゃない」
レンを見た女将はそう言うと、二人が席についたテーブルに湯気の立つ湯のみ茶碗をことりと置いた。
「今日はデートかい?」
「いや、その前におばちゃん……私も常連じゃん」
サトはレンにばかり話しかける女将に、少し不服そうに言った。
「常連……? そういえば、声は聞いたことあるような……」
サトの言葉に女将は首を傾げて考え込む。
「あ、そっか、眼鏡がないからわからないのか……眼鏡眼鏡っと……」
サトはハッとしてショルダーバックから愛用の眼鏡を取り出し、それを掛けてみせた。
「サトちゃん?」
女将はすぐさま素っ頓狂な声をあげた。
「そうそう」
サトはすぐにメガネを外し、笑顔を浮かべた。
「いやあ……びっくりしたよ……まるで別人だわ」
「そんなに驚くほど違うかなあ? まあ、今日は隊服じゃないってのもあるだろうけど」
「いやいや服より見た目だよ! 髪型もなんだか素敵になっちゃってさ……いいよ、その方が! それに彼氏さんもできて良かったじゃない!」
「えっ……いや、これ彼氏じゃなくて上司だよ」
サトの言葉にレンはわざとらしく咳払いする。
「実は結婚する予定なんです」
淡々としたレンの言葉がテーブルの上を滑り、転がり落ちた。
「本当かい、そりゃめでたいねぇ! サトちゃんは生涯独身かと思ってたから私も嬉しいよ!」
「あっ……いや……女将さん、おすすめのランチを二つください」
サトは気まずそうに俯き、ボソボソと女将に言った。
「はいよ、お幸せにね、お二人さん」
るんるん気分でテーブルを離れていく女将の背を見送り、サトは深いため息を吐いた。
「おい……擬装って言葉が抜けてるぞ」
サトは渋面を作って対面のレンを睨んだ。
「阿呆かお前は……偽装であることを知ってるのは、俺とお前の二人だけでなければならんのだ」
少し呆れたようにレンは言った。
「だってここ、単なる大衆居酒屋だぜ?」
「甘いなアマガイ……この店はうちの社の連中も来るだろう? 俺もお前も来てるんだから……どこから情報が漏れて、我が父の耳に入るともわからんだろうが」
「まあ、そりゃそうかもしれないけど……」
「それより見た目、変えて良かっただろう? 褒められたじゃないか」
レンは微かに目を細めて、湯のみ茶碗の茶をすすった。
「えっ……あぁ、まあな……でもそれいっぺんに吹き飛んだわ」
サトも湯のみ茶碗を手にとり、その中で揺らめく緑色の水面を見つめた。
「慣れろ。明後日には社内で同じことを言うから、もっと騒がれることになる」
「おい、嘘だろ……」
サトは絶句し、愕然とした表情でレンの無感情な瞳を見た。
「……言い忘れていたんだが、俺の父は同じ社の元隊員なんだ。そういったわけで、社内に父の知り合いが数人いる。彼らを信用させなければならない」
レンは無表情でじっとサトの瞳を見つめ返しながら言った。
「そんなこと聞いてねぇよ……社内で噂になるかもってのは覚悟してたけど、堂々と言うつもりなのかよ!」
「当たり前だ。結婚するとなれば、社に書類も出さなければならんしな」
サトは今更ながら青ざめた。
「はい、おまちどおさま」
そこへ女将が白い湯気を立ち昇らせる煮魚定食を二つ運んでくる。
「あれ? サトちゃん顔色が悪いけど大丈夫かい?」
「う、うん……大丈夫……ありがとう」
サトはなんとか笑顔を繕いつつ、そっとため息を吐いたのだった。
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