第42話 再スタート

 海原を見渡せる公園で、サトはふくれっ面を作っていた。

 いつもチカと一緒に昼食をとっている、社の近くにある公園だ。

 時刻は勤務後の六時で既に日は落ちていたが、外灯がある為公園内は明るかった。

 サトの隣で海に面しているフェンスに寄りかかりながら、レンは月と海とを見つめていた。

「……悪かったよ……母さんの前であんなこと言って」

 サトがレンの父を見舞ったのは、つい一昨日の事だ。

「まったくだよ!」

 サトはふくれっ面のまま、暗い海原に向かって叫んだ。

「俺もお前と同じで、嘘が嫌いなんだ……仕方ないだろ」

 レンは苦笑しながら静かな声音で言う。

「それにしても、母さんまであんなことを言うとはな……正直、あれは俺も驚いた」

『じゃあ、私もレンと一緒に待ってるわ……あなたの返事を』

 サトはレンの母の穏やかな笑みを思い出して、大きなため息を吐いた。

「嘘ついたことを怒られたり、がっかりされたりするより、よほど良かったけどな」

「でも、お前にとってはプレッシャーになってしまった」

「まあな……でも、そうそう隊長のお母さんには会わないからさ」

 ほぅ、とサトは大きく息を吐いてレンを見た。

「とりあえずお父さんに会ったんだから、擬装結婚の契約は終了でいいんだよな」

 サトはそう言いながら、肩から提げたショルダーバッグから小さな箱を取り出す。

 それはレンと一緒にエンゲージリングを買った時にサトが預かったものだ。

 今のサトの指に、リングは一つも嵌っていない。

「……あぁ」

 レンはサトが差し出した箱をゆっくりと受け取り、箱を開けた。

 そこにはレンが選んだリングが光り輝いている。

 暫くの間、レンはそれをじっと見つめていた。

「……ありがとうな、俺の頼みを引き受けてくれて」

 パタリ、レンは箱を閉める。

 そしてそれをそのままサトに差し出した。

「……なんだよ……」

 サトは怪訝そうな目でレンを見る。

「プロポーズの言葉はまだ言わない。これは、目印だ」

 レンは真面目な表情で言った。

「目印?」

「俺の気持ちを受け入れる準備ができたら、その指輪をもう一度嵌めて欲しい」

 サトは少しの間黙り込む。

「……準備できるかわからないから……これは受け取れない」

「これは、お前の為に俺が選んだものだ」

 レンは微かに目を細める。

「だから、これをお前以外の誰かに渡すつもりはない。もし、お前が受け取れないと言うなら」

 レンは箱を引っ込めるとリングを取り出し、海に向かって投げた。

「えっ……嘘……」

 サトはそれを目で追うが、暗闇ではそれは難しかった。

「なっ、なんてことするんだ、もったいない!」

 サトは渋面を作ってレンに叫んだ。

「お前が受け取らないなら、俺が持っていても意味がない」

「だ、だからって捨てるかよ……」

「仕方ないだろ」

 レンは月光を受けて揺らめく海原を見つめる。

「……今はまだ……」

 ぽつりと呟くサトの脳裏に祖母の笑顔が浮かぶ。

『最初は、愛情じゃなくて同情だったの……』

『今はとても幸せだし、おじいちゃんの事好き? って聞かれたら大好きって答えられるわ』

「……愛情じゃなくても、か……」

 サトはぼんやりと呟く。

「……私は……なにを望んでるんだろうな……隊長や、隊長のお母さんには、幸せになって欲しいと思ってる……だけど、私は決められない……怖いんだ」

「怖い?」

「自分が……自分が今までずっと否定してきた、女になってしまうのが怖い」

 レンは暗い海原を見つめるサトの横顔を見た。

「……私がなにを言っているのか……わからないだろ? こんなでも、一応性別は女だからな」

 サトは視線を海原に向けたまま、自嘲するかのような笑みを浮かべる。

「……お前は、お前じゃないか」

 レンはサトの横顔を見つめながら言った。

「俺は、まっすぐなお前が好きだ。自分の中の女が怖いと言う、お前が好きだ」

 サトは俯き、目を伏せて笑った。

「……こんな、臆病者の私をか……」

 レンはそっとサトの頭に手を載せた。

「昔、ヤジロウ先生に怒られて震えてた俺の頭を、お前が撫でてくれたんだ」

 サトは頭に手を置いたままのレンを見た。

「……あの時、俺は怖くて不安でたまらなくて……でもお前に頭撫でられて、お前の笑った顔見たら……その一瞬だけはすべてを忘れた」

「そんなの……覚えてないよ……」

 微かに笑うサトの瞳が潤む。

「うん……でも、その時なんだ。俺が、お前に惚れたのは」

 レンは穏やかな笑みを浮かべた。

「あの時お前がしてくれたように……俺がお前の恐怖心を取り除けたらいいんだけどな」

 サトはそっと息を吐き、頭の上のレンの手に触れた。

 あたたかな人肌のぬくもりが、手を伝わってサトの胸の内に広がっていく。

「……指輪……受け取ってくれるか?」

 静かなレンの声音がサトの耳に届いた。

「……え? なに言ってるんだ……指輪は、さっきお前が捨てただろ……」

 きょとんとするサトの前で、レンはポケットから指輪を取り出して見せた。

 それはレンの指先で外灯の光を受け、清廉な輝きを放つ。

「……投げたふりをしただけだ」

 レンはいたずらっぽく微笑んだ。

「……きったねぇの……」

 サトは思わず笑った。

「やっと笑ったな」

 レンは満面に笑みを浮かべ、サトの瞳を見つめる。

「俺の傍にいて、俺を幸せにしてくれ」

 言うレンの瞳を、サトは苦笑いを浮かべて見つめ返した。

「……仕方ねぇな……」

「……ありがとう、サト」

 レンはそっとサトを抱きしめた。

 その腕の中で、サトは不思議なほどの安堵感を感じていたのだった。


「チカ……キレイだったなぁ……」

 純白のウェディングドレスに身を包んだチカを思い出し、サトは感嘆のため息を吐いた。

「うん、綺麗だったな……ドレスのデザインもよく似合ってて良かった。お前ならやっぱりマーメイドでハイネックがいいな」

 チカと第二騎馬隊の副隊長との結婚式には、第三騎馬隊隊長のレンも出席していた。

「気が早いよ」

 ファッション好きなレンの台詞に、サトは苦笑いを浮かべる。

 サトが身につけているドレスやバッグ、靴やアクセサリーまで、全てレンが見立てたものだ。

 ドレスはネイビーカラーの落ち着きあるハイウエストのワンピースだった。

「早くない、遅いくらいだ……もう、お前は二十八歳だぞ」

「うっ……歳の話なんかするなよ」

 サトはげんなりとして言った。

「家族を持とうと思うなら、年齢は重要なポイントだ」

 渋い表情をするサトに、レンは諭すように言う。

「そうだけどさぁ……」

「俺は一人っ子で寂しかったから、子供はたくさん欲しい」

「えっ、そうなの?」

 サトは眉根を寄せる。

「……指輪、返そうかな」

「……すまん、ちょっと欲が深すぎた」

「……嘘だよ……返さないよ」

 サトはにやりと笑った。

「別にいいじゃん、式なんか挙げなくたってさ」

「わかってないな、お前は……俺は自分がプロデュースした花嫁姿のお前を、社の連中に見せびらかしたいんだ」

「はあ? なんだよ、それ」

 素っ頓狂な声をあげるサトに、レンはにっこりと笑った。

「俺の夢だ」

「夢ねぇ……」

 サトはぼんやりと呟いた。

「協力してくれるか? 俺の夢の実現に?」

「……仕方ねぇな……考えておくよ」

 笑って答えるサトの手をとり、レンは笑った。

 サトのもう片方の手には、ブーケトスでチカから受け取った花束がある。

 二人の間に吹き抜ける柔らかな風に、その花びらがゆらゆらと揺れていたのだった。


「わあ……漫画がいっぱいある……すごーい」

「兄ちゃん、外で遊ぼうよ」

 沢山の本が並ぶ本棚を目にした男の子が、きらきらと瞳を輝かせた。

 その袖をボールを抱えた弟が掴んでいる。

「すごいだろ? これ全部、お父さんのコレクションなんだぞ」

 小さな男の子を抱っこしたサトが、笑顔で説明する。

「母ちゃん、ここにある本読んでもいい?」

「兄ちゃん、外行こうよ!」

「よしよし、外には母ちゃんが一緒に行ってやるよ……本は大事に扱えよ……お父さんと母ちゃんの大事な本なんだからな」

 サトは笑って部屋の灯りのスイッチを入れ、部屋を出る。

「うん! わかった!」

「えぇ……兄ちゃんと一緒がよかったのに……」

「お前が漫画に目覚めるのはいつかなのかねぇ……ほら、行くよ」

 サトは笑顔のまま、ふくれっ面をする弟の頭に手を置いた。

「はあい」

 弟は渋々母の後を追う。

「わぁ……どれを読もうかな……」

 部屋に一人残った男の子が手にしたのは、かつて図書室でサトが読んでいた漫画だった。

『おい、アマガイ……お前の推しキャラは誰だ』

 男の子はわくわくしながら本の世界の扉を開く。

『エイっていう、存在感の薄いカッコイイおっさんだ』

「……このオジサン、なんかかっこいいなぁ……」

 レンによく似た瞳を輝かせ、男の子は夢中で本のページをめくる。

 そのかすかな音が、穏やかな昼下がりの部屋に広がり続けたのだった。

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水平線と夜の闇 鹿嶋 雲丹 @uni888

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