第9話 一緒にいるだけで

 馴染みの大衆居酒屋は、先日レンと訪れたので選ばなかった。

 もし行けば、顔なじみの女将からなにか言われるに違いない。そんな女将に聞かれなくない話を、今夜はチカとしたかったのだ。

 雨上がりのアスファルトは黒く艷やかで、ところどころ立ち並ぶ店の灯りを反射して、淡く光っていた。

「悪いな、チカ……いつもの店じゃなくて……しかも、急に電話したりしてさ」

 サトは井坂と話をしてからいてもたってもいられなくなり、チカに仕事明けに会えないかと電話で打診していたのだ。

「いいよ。私もサトに聞きたいことがあったし、それに居酒屋さんじゃなくてもお酒は飲めるよ」

 チカはサトの隣を歩きながら、にこりとサトに微笑みかけた。

 チカの身長は一五五センチほどで、一七〇センチを少し超すサトを見上げる形になる。

 サトは隊服姿だったが、チカは私服だった。

 フォグブルーのブラウスにサフラン色のフレアースカートの優しい印象の色が、チカの可愛らしさを少し大人っぽいものにしている。

 二人が向かったのはお手頃価格でディナーが楽しめる小さな隠れ家レストランだった。

「私、彼とのデートでこのお店よく来るんだ。社から少し離れてるし、同僚とばったり会ったこともないから安心だよ」

「そうなんだ……隠したい社内恋愛は大変だな」

「……まあ気は使うけど、どうやったら見つからずに会えるか考えるのも、なんだか悪だくみしてるみたいで面白いよ」

 微かに眉根を寄せたサトに、チカは楽しげに笑ってみせ、清潔感のある白い木製のドアを開けた。

 カランカラン、という軽快なドアチャイムが店内に響き渡る。

「いらっしゃいませ……おや、今日はいつもの彼とご一緒ではないのですね?」

 ホール係の初老の男が笑顔でチカに問う。

「はい、今日は女友達と女子トークをしようと思って」

 チカも穏やかな笑みをホール係の男に向けた。

「なるほど……これはまたクールな印象のお客様ですね……どうぞ、お席にご案内致します」

 ホール係の男は自身と同じくらいの身長のサトを見、クールと表現した。

「クールね……そんな言葉、初めて言われたよ」

 案内された席に座りながら、サトはしみじみとした口調で言った。

「そう、まずはその外見よ! どうしちゃったの、サト?」

 チカはテーブルに置かれた温かい手拭きを手に取りながら、微かに眉根を寄せた。

「これは、あいつが……ヒラド隊長のせいだ」

 サトは嫌そうに眉間に皺を寄せた。

「そっか、サトの意志じゃなかったか……」

 少しほっとした表情でチカは言った。

「てっきり好きになった人の為に、かわいくなろうとしたのかと思った」

「チカ……あの男に、私を惚れさせる要素なんてひとっつもないから」

 サトは少し冷めた手拭きを手にとって言った。

「なにが俺の隣を歩くのにふさわしくなった、だ……本当に腹立つ……まあ、金は向こうが出したからいいけどさ」

 サトはチカが広げた店のメニュー表に視線を落としながら、ぶつぶつとこぼした。

「私のおすすめはコレ。あとワイン頼もうかな……サトはお酒飲めないから果汁ジュースとかどう?」

「……うん、セレクトはチカに任せるよ」

「わかった」

 チカは頷くと卓上の呼び鈴を鳴らし、すぐにやってきたホール係の男に注文を伝える。

「こちらは女性のお客様へのサービスです」

 男は上品さを感じさせる仕草で、卓上に氷の浮いた水のコップ二個と一口スイーツが盛られた小皿を置いた。

「わあ、嬉しい! ありがとうございます」

「はい、どうぞごゆっくり」

 チカと笑顔を交わし、男は去っていく。

「……でも、私は悪くないと思うよ」

「……なにが?」

「今の格好。隊服は前から似合うと思ってたけど、ますますかっこよくなった」

 チカは言い、両手で水の入ったコップを口に運ぶ。

「そう? まあ、チカにそう言われるのは悪い気がしないけど」

 サトは苦笑しながら小皿のチョコレートをつまんだ。

「それにさ、服にまでイチャモンつけられてさ」

「……ヒラドさん、そんなにおしゃれな格好してきたの?」

「うん……私はファッションのことはわからないけど、シャツにジーパンじゃなかった」

「ふぅん、そうなんだ……まあ、ヒラドさんは顔もスタイルもいいからどんな服装でも似合いそう」

 チカが脳裏にレンの隊服姿を思い浮かべた時、ホール係の男が赤ワインと果汁ジュースのグラスを運んできた。

「とりあえず、乾杯しよっ! お疲れ様でした」

 チカはにこりと笑ってグラスをサトに差し出した。

「……うん、疲れたわ」

 サトは苦笑いを浮かべながら、チカの赤ワインのグラスに自身のグラスを合わせた。

 カチン、というガラス同士がぶつかる可愛らしい音が響いた。

「それにしても、初めてのデートで相手を自分の思い通りにカスタマイズするとはね……ということは、服の組み合わせはヒラドさんが選んだんでしょ?」

 グラスの赤ワインを口にし、それを少しの間楽しんだ後でチカはサトに訊ねた。

「うん、そうなんだ……四組分も選んでくれちゃってさ……あ、古着屋だったけど会計は向こう持ちだ」

「コンタクトレンズに美容室、さらに服……ヒラドさん随分張り切ったね」

「なあ? たかだか擬装結婚の相手にさあ……だから私は申し訳なくて、昼ごはんをご馳走してやったんだ、あの大衆居酒屋でさ……そしたらあいつが店の女将に私のこと結婚相手だなんて言いやがって……」

 サトは忌々しげに言った。

「お陰で、しばらくはあの店に行けないよ」

「お父さんを騙す為に、か……」

 チカはぼんやりと呟いた。

「うん……隊長のお父さんは、どうやらうちの社のOBらしいんだ」

「そうなの? なるほど、じゃあお父さんの知り合いが社内にいるってことか……それで、社内で広報したと」

 サトはチカの言葉に頷いた。

「まあ、隊長はそう言ってたけどさあ……」

 サトが話しかけたところで、二人が注文した料理が運ばれてくる。

「……イサカ隊長から話を聞いちゃったらさ……なんか後ろめたくなっちゃって」

 サトは運ばれてきた肉のソテーを切り分けながら、伏し目がちに言った。

「話って、どんな?」

「イサカ隊長の娘さんがヒラド隊長のこと気に入ったんだけど、断られたって話」

「……そっかぁ」

 チカはフォークに刺した肉を口にしながら言った。

「なんで断ったんだろう?」

「……女らしいからじゃないか? 花嫁修行もバッチリのふんわりとしたお嬢さんらしいよ、イサカ隊長の話だと」

「そういったの嫌いなの? ヒラドさんは?」

 チカの問にサトの手が一瞬止まる。

「うーん、気を使うのが面倒だとか、話がつまらないとかなんとか言ってたな、そういえば」

「……そんなことを言うなんて、本気で誰かを好きになったことがないんだね、ヒラドさんは」

 言い、チカは笑った。

「好きな人と一緒にいられたら、それだけで幸せなのに」

「……さすがチカの言葉には重みがあるな……私も異性に好意を抱いた事がないから、他人のことはあれこれ言えないが」

「まあ、大失恋してますからね、私は」

 ふふっとチカは可愛らしい笑みを浮かべる。

「一緒にいるだけで……か……」

 サトは呟く。

「これから先、そんな気持ちになることあるんかなあ……私」

「少なくとも、私はサトと一緒にいるだけで楽しいし嬉しいよ」

 にこにこと笑いながらチカは言う。

「うん……私もチカと一緒にいると安心するよ……多分、こういったことなんだろうな」

「そうね……ヒラドさんにもそんな誰かがいてくれたらいいのにね」

「優しいな、チカは……その前にそれを向こうが望んでいるのかどうかが問題だ」

 サトの脳裏には先日のデート中ほとんど笑わなかったレンの顔が浮かんだ。唯一覚えている笑顔は、大衆居酒屋の女将に『結婚する』と大嘘を吐いた時のものだ。

「めっちゃ作り笑いだったな、ありゃあ……」

 サトは呟くように言った。そんなサトにチカが訊ねる。

「あと三回だっけ? お父さんと会うまでにデートする回数」

「……うん、そう」

「それまでに、なにかヒラドさんのことわかるといいね。なんかモヤモヤするもの、私」

「そうなの? 私は早く擬装結婚の契約を終わりにして、漫画を読みふけりたいよ」

 ため息混じりに言い天を仰ぐサトに、思わずチカは笑ってしまったのだった。

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