第36話 水平線と夜の闇
「最後の回だけど、けっこう人がいるな……ん? 何か座席に書いてあるぞ……水しぶきが飛んできます、ご注意下さい、だって」
大きな海水プールを目の前にした席には、大きな注意書きが貼られていた。
そこには文字だけではなく、ビニールシートとレインコートのイラストも添えられている。
「ビニールシートやレインコートが要るくらいなのか……それは相当飛んでくるってことだな……じゃあ、もう少し上の席にしよう。まだ空きがある」
レンは上段の座席を見上げながら言った。
「えぇっ!」
サトは不服そうな声をあげる。
「服が濡れても替えがないんだから、仕方ないだろう」
レンは座席の横にある階段を登りながら言った。
「ちぇっ、仕方ないな……目の前で観たかったのに」
サトは渋々レンの後ろについて階段を登り始める。
「ここにしよう」
レンは、色分けされたギリギリの席を二つ確保した。
「うん」
サトは頷き、レンの隣の席に座る。
「……お父さんに会うの、来週だな……」
ショーが始まるまではまだ時間があり、次第に増えていく観客のざわめきを聞きながらサトは口を開いた。
「あぁ、サトに会うのをとても楽しみにしてるよ……父さんだけじゃなく、母さんもね」
レンは海水プールの中を泳ぐ大きなイルカを眺めながら言った。
「……お母さんには、偽装だって言ってあるんだろ?」
サトはゆらゆらと波打つプールの水面を見つめながら訊ねる。
「……いや、偽装とは言ってない」
予想外のレンの答えに、サトは目を見開いた。
「な、なんで言わないんだよ! 一番大事なとこだろ、そこ!」
「ごめん……なんか、言いにくくて……あまりにも嬉しそうな顔されたから……」
詰め寄るサトを見、レンはすまなさそうに言う。
サトはハッとし、思わずその場面を想像して目を伏せた。
「……そうだよな……お母さんに嬉しそうな顔されたら、実は偽装だなんて言えないよな」
サトは大きなため息を吐く。
「……隊長から言いにくかったら、私から言うよ。ただでさえお父さんに嘘つくのが心苦しいのに、お母さんにまでなんて、私には無理だからな」
「……すまない」
「……いいよ……大丈夫」
シアター内に、ショーが始まる前のアナウンスが流れ始める。
「……サトに見せたいものがあるから、病院に行く前に一度家に来てほしいんだ」
アナウンスが途切れた瞬間、レンは言った。
「見せたいもの?」
サトは怪訝そうな表情でレンを見つめる。
「俺のコレクション部屋だ」
レンは微かに笑ってサトを見た。
「お前が欲しがってる漫画も、全巻揃ってる……一部屋に俺が収集した漫画本が置いてあるんだ」
「なっ、なんだと!」
サトは思わず叫んだ。
「パ、パラダイスじゃねぇか、それ……」
「多分、お前にとってはそうなると思う……来週、病院に行く前に家に寄ってくれ。その時に母さんにサトを紹介するから」
「うん、わかった。早い方がいいしな、お母さんに偽装だって伝えるの」
サトは頷き、いよいよ始まるショーに視線を移した。
「ありがとう」
ショーが始まる寸前のしんとした空気の中、レンの小さな声がサトの耳に入ってきたのだった。
「これはほんとにレインコートが必要だったな……やはり前列を避けて正解だった」
ショーを観終えたレンがしみじみと言った。
その足元はプールから飛んできた水しぶきで濡れている。
シアター内にいた多くの観客はもうほとんどおらず、がらんとしていた。
「トレーナーのお兄さんがイルカに、もっとやれ! みたいな仕草をしてて面白かったな!」
あはは、と無邪気な笑顔を浮かべてサトは言った。
「アシカも可愛かったなぁ……お辞儀したり拍手したりしてさぁ」
「そうだな……」
レンは微笑を浮かべて座席から立ち上がった。
シアターのガラス越しに見渡せる海原が、沈みかけた夕陽に染まっている。
レンはそれを見つめたままじっとしていた。
「ん? どうした?」
サトは座席に座ったまま、動かないレンを見上げた。
「サト……五寸釘も水平線も真っ直ぐだ。同じ真っ直ぐなら、水平線の方がロマンがあるだろう? これからは、自分のことは五寸釘じゃなくて水平線だと思えばいい」
遥か彼方でオレンジ色に輝く水平線を見つめ、レンは言った。
「……なにを言い出すかと思えば……またスケールのでかいことを言うなぁ……」
サトは少し困ったように苦笑いを浮かべる。
そしてレンと同じように窓ガラスの向こうに広がる海原を見つめた。
陽は落ち、オレンジ色の世界はみるみる夜闇の色に近づいていく。
「……それを言うなら、暗黒世界より夜の闇の方が、同じ暗闇でも聞こえがいいな。うん。今度からそう表現しよう……それに夜って、なんだか綺麗だしな」
「夜が綺麗なのは、そこに光があるからだ」
レンはサトの瞳を見つめながら微笑んだ。
「月や星や外灯の光があるから、夜は暗くても神秘的で美しいんだ……それと同じように、俺の闇の中で光ってるのは、サト……お前だ」
「……そ、そんなキザなセリフ、よく恥ずかしげもなく言えるな!」
顔を赤く染めたサトが俯く。
「み、土産見て帰ろうぜ……ばあちゃん達になにか買いたいから」
サトはさっさと立ち上がり、シアターの出入り口に向かって歩き始めた。
「俺は、別に恥ずかしくないぞ」
その後ろを歩きながら、レンはサトの背に話しかける。
「……聞いてる私の方が恥ずかしいよ……」
呟くサトの脳裏に、つい先程見たオレンジ色の水平線と迫る夜の闇とが交互に浮かんだ。
「……でも、水平線も夜の闇も……どっちもキレイだよな……」
誰に言うでもないサトの呟きが、観客のいない静まり返ったシアター内にこぼれ落ちる。
サトは階段を登りきった所でふと足を止め、レンを振り返った。
そこには、夜の闇に包まれた海原に浮かぶレンの姿がある。
言葉にするのが難しいなにかが、サトの内側にじんわりと広がっていく。
それは微かにむず痒いような、それでいてどこか満たされていくような、不思議な感覚だった。
「……どうした?」
サトに追いついたレンが問う。
「……いや、なんでもない」
サトはすぐに前を向き、水族館の出口へ向かって足を踏み出したのだった。
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