第26話 病室
病院は、消毒液の匂いがした。
何度足を運んでも、好きになれない匂い。
レンの表情は知らず知らずの内に微かに曇っていく。
父の体に病巣が見つかったのは、四ヶ月ほど前の事だ。いくつもの検査の結果医師から告げられたのが、余命半年という言葉だった。
レンは病院の廊下を歩きながら、母のことを考えていた。
母はあの時、なぜあの男と会っていたのだろう?
母には母の人生を選択する権利がある。
よく考えてみれば、それは当たり前のことだ。
だがサトと話すまでのレンは、寂しさや怒りの方が強かった。
サトに偽装結婚を頼んだ時から、母親のことを話すつもりなどレンには毛頭なかった。
サトには、病床の父の前で婚約者であると嘘をついてもらえさえすれば良かったからだ。
それなのに、つい話をしてしまった。
いや、違う。
話を聞いてもらいたかったのだ。
……ずっと前から……ずっと、誰かに。
「……なんか少しスッキリしたような気はするけど……俺って暗い奴だと思われたよな……まあ、実際そうなんだけど」
レンは小さくため息を吐いた。
その脳裏には母の姿に次いで昨日のサトの姿が浮かぶ。
公園のベンチに腰掛け、話をしていた時のものだ。
サトは最後に『どう生きようが、それはそいつの自由だ』と言った。
けしてレンに、母を許してやれとは言わなかった。
レンは微かに目を細める。
レンが母を許せないと思ってきたのは、自分が愛されたかったからだ。
自分が、誰より一番に母から愛されたかった。
「……ワガママだよな……俺は、母さんになにもしていないっていうのに……」
レンの脳裏に、昔見た母の無邪気な笑顔が蘇る。その時母の隣にいた男の、優しげな笑顔と一緒にだ。
途端に、レンの胸がサアッと冷たくなる。
だがそこで踏みとどまり、レンは考えた。
あの時、あの男は母にああいった表情をさせる何かを与えていたんだろう。それは、自分や父ができなかったことなのだ。
レンは個室タイプの病室の前で足を止めた。
入り口には“平戸”のプレートがはめられている。
父さんは、知らないでいい。知らないでいて欲しい。
レンはそっと祈りながら、コンコンとドアをノックし扉をあけた。
「……来てくれたのか……レン」
やせ細り、頬骨が目立つようになった父がレンに気づいて嬉しそうにその目を細めた。
「……うん……」
レンは何を言っていいかわからず、ただ穏やかな笑みを父に向けた。
カーテンのかかっていない窓の外は陽が傾き始め、少し開けた窓の隙間風が少し冷たくなっていた。
「……窓、閉めるよ」
レンは窓を閉め、カーテンをひく。
「一日が、あっという間に終わるような気がするよ……こんな体になって、ようやく気がつくことが沢山あってな……レン」
父の力のこもらない穏やかな声が、レンの背に伝わった。
レンは父を振り返ることができなかった。
「俺は……母さんやお前に、もっと優しくすれば良かったと……そう思ってる」
ゆったりとした、元気だった頃の父とは違う口調。
レンは少しだけ俯き、そっと目を伏せた。
「……俺は……父さんに感謝してるよ……ここまで育ててもらってさ」
「……あとは、お前の嫁さんの顔を見られたら、もう何も悔いはないな。母さんが、ここに来るたびに嬉しそうに言うもんだから、俺も楽しみで仕方がないよ」
ずきり、レンの胸に痛みが走る。
「……再来週、紹介するから」
レンは小さく深呼吸し、ぎこちない笑みを浮かべて父を振り返った。
そこには、にこにこと嬉しそうに笑う父がいる。
レンは一瞬、呼吸を忘れた。
「うん、再来週な……それまでは、なにがなんでも生きていなきゃな」
「……そうだよ……でないと……意味がない」
レンは自分の口から漏れ出た言葉にハッとした。
「また来週、顔を見に来るよ……母さんは、明日来るって」
少し慌てたように、レンは父に告げた。
「……うん……なあ、レン」
そんなレンを父は真面目な表情で引き留める。
「なに?」
レンは何かをこらえながら、父の瞳をじっと見つめた。
「母さんのこと、頼むな……あいつには、もう寂しい思いをさせたくないんだ」
「……うん……わかった……」
『それは寂しいだろうな、お前もお母さんも』
蘇るサトの言葉が、レンの胸の深いところを鷲掴みにする。
一緒にいても、いや、一緒にいたからこそなおさら母にそう思わせてしまったかもしれない。
今さら、レンは過去の自分を顧みていた。
病室を後にし、レンは俯きながら歩く。
誰かに縋りたい気持ちに溺れながら、レンはサトの顔を思い出していたのだった。
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