第30話 感情
職場ではあまりレンと顔を合わせることなく、サトは週末の休みを迎えた。
「……最後の組み合わせ……」
サトはぼんやりと呟きながら、目の前に広げた服を眺めた。
初めての擬装デートの時に、レンが選んだ服だ。
四組あったそれは、袖を通していないものは一組だけになっていた。
色鮮やかなブルーのトップスと、ブラックのロングスカートの組み合わせだ。
「綺麗な青……水族館にぴったり……」
サトはそっとニット素材のトップスに触れた。
レンは、いつものようにこの家の前まで来るだろうか?
サトは部屋の隅に置いていたショルダーバッグから一枚の紙片を取り出した。
初めての擬装デートの時に、握りしめていたものだ。
そこには当時の待ち合わせ場所と時間が記されていた。
「……なんだろ……なんだか懐かしいな……」
紙片に記された文字と数字とを、サトは目を細めてじっと見つめる。
「……思えば、奴は始めから強引な奴だったよな……コンタクトとか髪型とか服とかさ……余計なお世話だっての……」
呟き、サトははぁとため息を吐いて目の前の鏡を見た。
全身が映るその大きな鏡には、分厚いレンズのメガネをかけいつもの部屋着を纏った自分が映っている。
「……見た目が大事なのは、私にだってわかってるよ……」
サトは鏡の中の自分に語りかける。
「……着替えるか……そろそろちゃんと準備しないと、待ち合わせの時間までにこの場所に着かないし」
サトは呟き、手にした紙片を折りたたんでショルダーバッグにしまい込んだ。
その手に、かさりとしたものがあたる。
「あ……そういえば、こないだ買ったのすっかり忘れてた……」
ショルダーバッグの中に置き去りにされていたのは、一本のリップスティックだった。
ほんのりと色がつき艶が出るのがうたい文句の一品だ。
「……何でこんなもの買ったんだろ……でも、使わないのももったいないかな……」
サトはほんの少し迷ったが、その包を開けることにした。
「今日の服は大人っぽいのぅ……これはこれで良いセンスじゃ……さすがレンが選んだだけあるのぅ……それになんだか唇がつやつやじゃ……」
門の外まで見送りに出たヤジロウがニヤニヤと笑った。
「あのねじいちゃん、これは単なる色つきリップだよ!」
サトは眉根を寄せる。
「ふぅん……なんにしても年頃の娘がおしゃれして綺麗になるのは良いことじゃ……それにしても、今日はレンの奴来ないのかのぅ」
ヤジロウはレンが歩いてくる方向に目をやりながら言った。だが、その姿は見えない。
「……今日は待ち合わせ場所に来てるのかもよ」
「なんじゃ、つまらんの……今日の課題の確認ができんじゃないか」
「……そんなこと、しなくていいから」
サトは残念そうに言うヤジロウに、ぼそりと言った。
「……こないだ、なんかあったじゃろ?」
ふと声をワントーン落とし、ヤジロウが問う。
サトは一瞬、ぎくりと体を強張らせたがすぐに笑顔を浮かべた。
「……なにもないよ……とにかく今日で擬装デートは最後だし、あとは向こうのお父さんに会ったら契約終了だから」
「ほぉ……わしゃてっきりレンの奴から正式にプロポーズでもされたのかと思ったわい」
『俺は、お前に傍にいて欲しいと思っている……偽装結婚の相手としてじゃなくて、本当の結婚相手として』
サトの脳裏に、夜闇の中に浮かぶレンの姿が蘇る。
レンは真剣だった。強い輝きを放つ黒い瞳が、その全てを物語っていた。
「……そんなもん……されるわけないじゃん……擬装なんだから……」
呟くサトの胸がきりきりと痛む。
レンの本心がわかったからこそ、あの時サトは逃げ出したのだ。
自分はレンを、どう思っているのか。
弱音を吐きたいなら、いくらでも聞く気持ちはあった。励ましを望むなら、いくらでも励まそう。
だが、それと男女間の感情は別物だ。
サトはそう考えている。
「……じゃあ、行ってくる」
サトは前を向いて歩き出した。
「……おぅ、頑張ってな」
レンは待ち合わせ場所に来ているだろうか?
ヤジロウの妙な見送りの言葉を背に受けながら、サトは微かに表情を曇らせていたのだった。
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