第29話 特別な女性

 見慣れたいつもの景色をぼんやりと眺めながら、サトは何度も小さなため息を吐いた。

 チカと昼食をとっている、海が見渡せる小さな公園だ。

「仕事してる最中はヒラド隊長と顔を合わせなくて済むから、気が楽だね」

 黙ったままのサトの気持ちを代弁するかのように、サトの隣で海を眺めるチカが言った。

「うん……ほんとに、そう思う」

 サトは昨夜の公園でのいきさつを、チカにだけは話していた。

「……本気なんだなあ……ヒラド隊長は」

 ぽつりとチカは呟く。

「……困るんだよ……そんなの……勝手にさ……」

 サトの呟きにチカはくすりと笑った。

「人の気持ちなんて、いつだってそんなもんだよ。サトは、誰かのこと好きになったことないの?」

「あー……思い当たる節、ゼロ」

「ゼロか……それは残念……というか、本当に?」

 チカは探るような視線で隣のサトを見た。

「ほ、ほんとだよ」

 サトは少し気まずそうに視線を逸らす。

「ふぅん……まあ、サトは自分で自分の魅力をわかってなさそうだからなあ」

「み、魅力? ……そんなもん、あるわけないだろ! 見てみろ、この棒切みたいな体を」

「あのね、サト……」

 言い張るサトをチカは少し呆れたように見つめた。

「なぁんにも魅力がない人を、ヒラド隊長が好きになるわけないでしょう?」

「あ、あいつは、過去の幻想に囚われてるだけなんだよ! つまり、気のせいってことだ!」

「……サトが自分自身をどう思っていようとね、ヒラド隊長にとってサトは特別な女性なんだよ?」

『……五寸釘だろうがなんだろうが……お前は、俺には必要な存在だよ』

 ふと、昨夜のレンの言葉が脳裏に蘇りサトは目を伏せた。

「……それで……偽装結婚はどうするの? このまま続けるつもりなの?」

 再び黙り込んだサトに、チカは訊ねる。

「偽装結婚は、あいつの父親の為だからな……あいつの方から断ってこない限りは、続けてもいいと思ってる」

 サトは淡々とした口調で言った。

「……偽装の方が、私は気が楽なんだ……あと一回出かけて、あいつの父親の前で嫁ですって言えば、全てが終わる……あいつとの関係も、ただの上司と部下に戻る……それがいい」

「……嘘つけるかのかな……サトは……」

 遠くの海原を見つめながら、チカは呟く。

「……嫌だけど……仕方ないだろ……そうしないとあいつの父親が安心できないって言うんだから」

 チカと同じように遠くに視線を向けながら、サトは言った。

「私は……サトには無理な気がする」

 チカはにこりと笑ってサトを見た。

「……正直、私も自信がない……だけど、頑張るしかない。一度だけ、一度だけでいいんだから」

「……今度の偽装デート、どこに行くの?」

「……水族館……海沿いにある、大きいとこ……」

「あぁ、あそこかあ……あの水族館はイルカとかアシカのショーも観られるから、楽しいと思うよ。私もこないだ彼と行ったんだ」

 チカはにこにこと笑ってサトに言った。

「楽しめるかなぁ……」

 サトは不安げな表情を浮かべる。

「ヒラド隊長は、サトのこと好きなんだもの。好きな人の事を大事にできる人なら、きっと大丈夫だと思うよ」

「そうかなあ……」

「せっかく行くんだから、楽しんできて! 気になるなら距離をあけて周れば大丈夫だよ」

 チカはサトの背にそっと手を触れた。

「なにかあったら、また私が話を聞くから……ね?」

「うん……ありがとう、チカ……もうひと頑張りしてくる……また、話聞いてくれ」

 ようやく微かな笑顔を浮かべ、サトはチカを見た。

「あっ、そろそろ戻らないと」

 午後の仕事開始時間が迫っている事に気がつき、サトは足早に待たせている騎馬の元へ向かう。

「行ってらっしゃい!」

 遠ざかっていくサトの背に向かって叫び、チカも自分の仕事に戻っていく。

「……そういえば、サトに言えなかったな……まあ、明日話せばいいか……」

 社内のデスクに座ると、チカは業務用の仮面を被る。そうしながら、チカは一人呟いていたのだった。

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